2013-02-01から1ヶ月間の記事一覧

読書会。ジャン=リュック・ナンシー『フクシマの後で』のワークショップの前で

昼寝から突如驚いて目覚めたパーンのように、 人間は、普遍者(Allheit)としての自然の姿に気づいて愕然とする。 かつてのパーンの驚きに対応しているのは、 今日いついかなる瞬間に突発するかもしれないパニックなのだ。 人間は、彼ら自身でありつつも彼らの…

お金とはどんなものかしら―『言語の金使い 文学と経済学におけるリアリズムの解体』

まずは歴史の勉強。たとえば塩野七生が『ローマ人の物語』文庫版で、毎巻ごとの表紙に統治者のレリーフを刻印した貨幣を飾っていたように、貨幣の存在は古くから統治行為の中枢にあった。その貨幣の届くかぎりがローマの統治の及ぶところであり、その硬貨の…

読書会。『いま、なぜゾラか』

2007年に『ジェイン・オースティンの読書会』が公開されたことが決定打になったのか、「読書会の流行」は実質以上にマスコミでもてはやされるようになっている。『読書会』の邦訳を刊行した白水社が「読書会ノススメ」という特集を組んだときは、白ワインが…

アドルノ/ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』と『オデュッセイア』

「オデュッセイア的転回」の後半で、ごくあっさりと『啓蒙の弁証法』に触れた。 アドルノ/ホルクハイマーはまた『啓蒙の弁証法』でセイレン譚を取り上げ、オデュッセウスを「自己保存的理性」(岩波文庫、132頁)と呼んでいる。 せっかくだから触れておいた方…

オデュッセイア的転回

『イリアス』における運命論的思考 先のエントリでは、『イリアス』に機能している支配的なイデオロギーが「運命」であり、それが戦場においては、死を定められたものとして潔く受け入れる態度として具体化されていることを確認した。その末尾で予告しておい…

忘却の余滴 『HIROSHIMA1958』と『愛の小さな歴史』

前回のエントリではアラン・レネ監督、マルグリット・デュラス脚本の映画『二十四時間の情事』(原題:Hiroshima Mon Amour)について書いた。1959年6月に公開された映画の撮影のためにアラン・レネが日本を訪れたのはその前の年、1958年7月のこと*1。原爆の投…