読書会。ジャン=リュック・ナンシー『フクシマの後で』のワークショップの前で

昼寝から突如驚いて目覚めたパーンのように、
人間は、普遍者(Allheit)としての自然の姿に気づいて愕然とする。
かつてのパーンの驚きに対応しているのは、
今日いついかなる瞬間に突発するかもしれないパニックなのだ。
人間は、彼ら自身でありつつも彼らの意のままにならない普遍者の手によって、
出口なき世界に火が放たれることを期待している。     『啓蒙の弁証法

哲学とは何か、哲学者とは誰か

これから*1震災及び原発事故(この二つの差異と連関についてはひとまず措くとして)という出来事について、現代における最高の哲学者とされる人物とともに/を介して「思考すること 」を試みるとき、やはりなによりもまず、「何故哲学なのか? 哲学は何故それを思考するのか?」について考える必要がある。それは哲学の責任respobsibilitéにまつわる問いであるが、しかしこの語それ自体にその答えを見出すこともできよう。つまり、哲学がそれを思考するのは、勝手に口を突っ込み、高みから論評するためではなく、余儀なくされているため、つまり、返答するrépondreことが必要であるため、である。
「実存に責任を負う 」というタイトルで行われた1996年11月2日の来日講演のなかで、ナンシーはまさしくこの「責任」について思考している

すなわちわれわれは活動や風俗、自然や歴史において名指しうるすべてに対して責任がある。われわれは存在、神、法、死、誕生、実存、われわれの、そして全存在者の実存に対して責任がある、われわれは自らそう言う。いずれにせよ、思想家と作家はそう言う。そして、このことはすでにわれわれを拘束(engager)している。

また彼は、この「際限のない責任」あるいは「境界のない責任」とも呼ばれるものについて考える哲学は、近代において自らを「一種の原-責任 」の行使者であると自任してきたことを指摘する。ニーチェが『善悪の彼岸』において「哲学者」について「自由な精神を持つわれわれが理解するところの哲学者とは最大限の責任を負う人間、人類の発展全体に責任を感じる人間である」と書いている箇所を引いて、彼がその解釈として示唆しているのは、「ここで「哲学者」と命名、いやむしろ言及されているものは、幻想を振りかざす人物像ではなく、この際限のない責任によってしか定義されない 」ということである。後の浅田彰との討議において「私には、われわれが責任ということを非常に真摯に考えることができるのだということを示すことが重要に思われた次第なのです 」と語っているように、彼はそこで明確な態度表明として「哲学者」たらんとしている。そして、してみれば、彼とともに思考することを表明する私たちもまた、いささかなりとも「哲学者」にならねばならない、ということでもある。

破局の等価性と等価性の破局

ナンシーははじめに、この誤解を招きかねない講演タイトルについて説明している。破局とはまさしく、比べようもない、空前絶後の、言語化しえない、「出来事」なのであって、決して等価なものではありえない。比較しえないはずのものを比較することは私たちにとって少なからずショックである。そこまで壮大な事態を想定せずとも、たとえばアラン・レネの『二十四時間の情事』において、ゆきずりに出会う恋人たちがお互いを見事なまでに理解しえないのは二人の抱える苦しみが比べえないものだから――同じ戦争を契機としたものであっても、同じ苦しみではありえないから――である 。しかしにもかかわらず、この映画が戦争体験というマクロな出来事と恋人の喪失というミクロな出来事を巧みに重ね合わせてみせているように、それらの出来事はモンタージュとして比較されている、というより、されてしまっている。ナンシーもまた、異なる理由によってではあるが、この等価性について説明している。

結局のところ、ここで破局の「等価性」ということが言わんとしているのは、今やどのような災厄も、拡散し増殖すると、その顛末が、核の危険が範例的にさらけ出しているものの刻印を帯びているということである。今や、諸々の技術、交換、循環は相互に連関しあい、絡み合い、さらには共生している。

ここでは現代の「複雑性」あるいは「全般的な相互連関」が災厄=破局に等価性をもたらすものとされているのであるが、このマルクス由来の等価性概念(一般的等価性)について、十分な理解が必要となる。
簡単に言って、一般的等価物équivalent généralとは貨幣の別名である。貨幣とは、M-A-M(ドイツ語ならW-G-W)の交換過程において、質的に異なる商品同士(たとえば砂糖と塩)を媒介して、等価交換を可能ならしめるものである。その媒介力は(ネグリ=ハートが『<帝国>』で述べていたように)国境を越えて全世界を繋ぎ、相互依存的で水平な関係を構築してゆくようにもみえる。今日世界がこれほどまでに往来しやすいものになったのは疑いなく貨幣のおかげである。そしてそれは、経済的な領域を超えて私たちの全存在を吸収している、とナンシーは指摘する 。

マルクスは貨幣を「一般的等価物」と名づけた。われわれがここで語りたいのもこの等価性についてである。ただし、これをそれ自体として考察するためではなく、一般的等価性という体制が、いまや潜在的に、貨幣や金融の領域をはるかに超えて、しかしこの領域のおかげで、またその領域をめざして、人間たちの存在領域、さらには存在するものすべての領域の全体を吸収しているということを考察するためである。

破局もまた、同じ等価性のなかに巻き込まれており、さらに彼は「結局、この等価性が破局的なのだ 」と続ける。ここで講演タイトルの転倒(破局の等価性→等価性の破局性)が起きていることに気を付けよう。何故等価性が破局的であるのかについてはこれから語られるわけだが、とりあえず注意しておきたいが、ここでナンシーが資本主義的な貨幣経済のモデルを批判的に検討しているからといって、ただちにその破棄を提案しているなどと考えてはならない。「問題は、対置することや提示することではない。 」対案を示してそこに飛びつくのではなく、むしろその本質を、左へ右への茶番劇では決して理解されることのないパニック、我々を昼寝から目覚めさせる「全般的な破局」がどのようにして可能になったのか、これを思考することこそが求められている。

補助線――アドルノ/ホルクハイマー『啓蒙の弁証法

経済的審級の絶対化を人間の存在様態それ自体に影響を及ぼすものとして分析するナンシーの姿勢は、マルクスは無論のこと多くの哲学者の検討の系譜に乗りかかるものであるが、ここではその例としてアドルノ/ホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』を取り上げよう。じっさい、同書も起きてしまった破局についての思考をまとめているのであって、必然的な破局の原点を「進歩の」文明の計算可能性・有用性に求めている、という点で一致している。神話的なものが啓蒙によって非合理的なものとして排除されていくとき、「数が啓蒙の基準となった 」ことを指摘しながら、彼らは次のように記す。

市民社会は等価交換原理によって支配されている。市民社会は、同分母に通分できないものを、抽象的量に還元することによって、比較可能なものにする。啓蒙にとっては、数へ、結局は一へと帰着しないものは仮象と見なされる。そういうものを、現代の実証主義は詩の領域に追放した。

理性的なものは自然や神秘その他非合理的なものをすべて排除して、合目的性に基づいて社会を形成しようとする。自己同一性を解体しかねないものへの不安に駆られて、啓蒙は内なる自然たる内面も外なる自然たる外界も支配しようと試みる。内的生に関して言えば、それは、人間の自然な欲求、快楽追求の断念である。

文明化をおし進めるあらゆる合理性の核心たる、この自然の否定こそ、増殖する神話的非合理性の細胞をなしているのであって、つまり、人間の内なる自然を否定することによって、外なる自然を支配するという目的(テロス)ばかりか、自らの生の目的すら混乱し見通せなくなってしまう。

何を契機にしてか知らないが、はじめは安寧の保障と幸福の追求の必要条件としてあくまで一時的に要請されたに違いない合理化のプロセスが、いつしかそれ自体目的となってしまい、人間さえもそれに傅くことになる。発展のための発展、進歩のための進歩、そういう自動化する現象に如何にして歯止めをかけることが可能であるのか、これが現代社会(消費社会)の課題の一つであり、私たちが革命を必要としているとすれば、それはベンヤミンの言うように、「多分革命とは、この列車に乗って旅している人類が引く非常ブレーキ」だからである。

特異なものの関係と一般的等価関係

さてナンシーの著作に戻ろう。比較を通じてかなり見えやすくなったものと思うが、等価性が破局的である所以とは、まさしくこの「自己生成的、自己合成的――あるいは自己錯綜的、自己不明瞭化的な――樹形化 」にある。それはあらゆるものを巻き込み、外部を消滅させ、内部を滑らかにしてしまうようにもみえる。「みえる」という言い方をするのはネグリ=ハートが『<帝国>』で論じてみせたように、その外見は紛れもなく虚妄であり抑圧と権力により成り立つものだからである。ナンシーの分析においてもそのような欺瞞性への指弾を窺うことができる。等価性がもたらすのは、ひとの特異性、そしてその特異性が織りなすはずの関係性の消滅だからである。

さまざまな形態、関係性、世代間関係、表象を有した「生」そのものが、つまり、思考し、創造し、楽しみ、耐え忍ぶといった能力を有した人間的生そのものが、不幸そのものよりもひどい状況へと突き落とされる。寄るべなき朦朧、錯乱、恐怖、昏迷である。

それゆえ、本書は「関係の詩学」に捧げられていると言えよう。確かに貨幣はM-A-Mの図式が示すように、関係を成立させるために必要不可欠な媒介である。しかしこの媒介の危険性は、かたやその関係項(人にせよ物にせよ)をも飲み込んでしまうところにある。「これこそがわれわれの文明の法則である。そこでは計算不可能なものが、一般的等価物として計算されることになるのだ。 」それに対してナンシーは、ごく初期の哲学的歩みから、「特異性」をこそ人間存在の根本に置いている。それを物象化的な世界に対する詩的カウンターパートとして捉えることもできるだろう。

これ[一般的等価性の関係]は、――「関係」と呼ばれるものがつねに通約不可能な何かとの関わりであり、関係の一項と他項とを絶対的に等価でないものにするものとの関わりであるとすれば――関係ではないのである。

現代のカタストロフ

ほぼ道具は出揃ったと考えてよいように思われる。ナンシーはこの講演のなかで、一般的等価性の関係と特異なものの関係性とを対比させながら、前者を私たちの文明全体の構え、存在の在り方として剔出している。このような存在様態を、ハイデガーの議論を借りながら、彼は「技術」と呼ぶ。「技術とは諸々の操作的な手段の総体のことではなく、われわれの存在様態なのだ 」と書いているように、ハイデガーの技術論は「技術」というものを個々の技術の使い方云々ではなくて、「存在」との関係において把握する 。私たちが事物を、人間を、世界をどのように捉え、どのように扱うか、これが私たちの存在様態を決定しており、かつ、その存在様態に基づいて、私たちはそれらを扱うのだから、ここには明白な循環がある。この存在論的-技術論的思考それ自体を思考することがハイデガー-ナンシーの課題である。核の「民生的な」利用と軍事利用の別は、それゆえ本質的なものではない。それらはいずれも技術であり、その次元で解決を図ろうとしても「全般的な破局」にブレーキをかけることにはならない。

というのも、そのような解決は、われわれが生を送り、文明が繰り広げられる場である技術的布置ないし技術的機制全体の軌道のなかに捉われたままだからである。

しかしながら私たちはあまりにも広大なパースペクティヴに立ってしまっているのではないだろうか。核それ自体の特異性、あるいはフクシマで起きたことの性格についてどのように考えるべきなのか、この点を欠いてはあまりに抽象的な議論に聞こえてしまいかねない。ナンシーによれば、フクシマは、現代における破局の在り方(つまり一般的等価物による相互依存的複雑性)を示している。

この点でこそ、フクシマは範例的である。地震とそれによって生み出された津波は技術的な破局となり、こうした破局自体が、社会的、経済的、政治的、そして哲学的な震動となり、同時に、これらの一連の震動が、金融的な破局、そのとりわけヨーロッパへの影響、さらには世界的ネットワーク全体に対するその余波といったものと絡みあい、交錯するのである。

「もはや自然的な破局はない。」これはきわめて示唆的な発言だと思う。震災と原発事故を連関において捉えるとき――偶発的な(地理的には「偶発」と言えないほど頻発するわけだが)自然災害によって人間たちの生活空間が脅かされ、そのエネルギー的拠点となる原発が被害に見舞われた、それゆえリスク管理と最悪の事態の想定、新しい安全基準に慎重になるべきである――自然災害と原発事故のそれを別物のように思考ことは果たして正しいことなのか。むしろフクシマで起こったことは、原発という発電機能の事故ではなく、私たちの技術的思考様式それ自体の機能不全である、と、このように理解するべきではないのか。

で?

貨幣の一般的等価性に基づく技術的思考、これが今日私たちを巻き込み、吸い尽くすところのものであり、震災がもたらした諸帰結、諸余波はその相互依存的な状況それ自体の破局性を示すところのものである。その意味で破局は全般的なかたちで遥か以前から始まっていたのだから、社会が震災と原発事故に対して採る自己延命的な手立ては破れ鍋に綴蓋という他ないところがある。これらの提言をすべて受け入れ、そのうえで、「で?」と問うことは許されるだろう。それでどうするのか……どうすればよいのか? このような問いかけが他人任せで、自分で思考するということを放棄して久しい人間の虚ろな眼差しから発されるものは承知のうえで、これから先のことを考えねばならない。ナンシーが最後に検討するのがこの点であるが、まずその前に、彼は、これまで何度も繰り返されてきた破局から、人々がどのように立ち直ろうとしたのかを指摘する。それは次のようなものである。

われわれの思考はもはや、危機についての思考や、投企についての思考であるべきではない。ところが、われわれは「最善のもの」についての思考のモデルとしてはほかに何も知らないのである。われわれは、なんらかの「最善のもの」を欲して以来、世界や人間を変革し改善しようと欲して以来、ふたたび生まれ変わる、新たに生まれ変わるといった観点でしか思考してこなかった。すなわち、世界や人間をよりよいものにする、よりよく作り直すという観点でしか思考してこなかった。

より良い社会を願うこと、改善を図ること、再生を目論み、企てること、これらは、それ自体決して悪いことではない。むしろ、ユートピア的なものを願うことは人間を突き動かす原動力であるとさえ言える。しかし何故私たちにはそれしかないのか? 対置や提示の企てをかわし、等価性の社会をその社会のままに改善していく見込みについては「一般的等価物を有徳に操作するという可能性への素朴な信仰 」と切って捨て、つまり、対案は出さずかといって現状肯定もできないという隘路らしきものにあって、ナンシーが「思考」という唯一の支えによって模索するのは、「別の道を開くこと 」である。
合目的性、一般的等価性から特異なものへの道、これを切り拓くためにはまず、合目的性を支える目的-手段の連関を解体する必要がある。

逆に決定的なのは、現在において思考すること、そして現在を思考することではないだろうか。

「観念論的解決はそれでもやはり解決にとどまる 」という開き直りにも近い言明によって、現在という「近接性の場」それ自体への視線を移すことを彼は論じる。目的-企てはひとをより良い世界へ導こうとするが、それがなければどうなってしまうのか。まさしくいま私たちが答えを得られず戸惑っているように、そこに見えるのは「積み重ねられ、彷徨する七○億の存在 」である。先日刊行された『ジャン=リュック・ナンシー 分有のためのエチュード』の最終章「意味=方向(サンス)をめぐって」において、ナンシーの思考における意味=方向の重要性、多義性を論じながら、澤田直は次のように書いている。

だが、神が存在せず、人間の本質もないのだとすれば、どうなるのだろう。神の退隠、本質なき特異存在としての人間というのがナンシーの立ち位置であることは、ここまで見てきたとおりである。この場合、神の不在や本質の不在という真理を発見することは、積極的な形で世界の意味を与えてはくれない。与えてくれるのは意味の不在だけである。とはいえ、意味なしに私たちは生きることはできない。意味の不在という生の現実に耐えることはできない。そのために、しばしば虚妄の意味へと身を委ねようとしてしまうのだ。だが、なすべきことは自己欺瞞に陥ることなく、意味の不在の意味を問うことなのだ。

ここでもやはりナンシーが「意味」について、「到達すべきいかなる目標ともならないが、とはいえつねにその近くにあることが可能なもの 」としていることは注目に値する。その近接性の空間に「到来」するもの、「プレゼントprésent」としての特異なものへの「崇敬adoration」、これらはごくあっさりと素描されるに過ぎない。「民主主義」の理念、「明日のための平等性」、そしてコミュニズムについての言及も同じである。ここではそれらにまで立ち入ることはしない。「たいへんためになる良いお話でしたね」ときれいにまとめるのも不要だろう。以上でレジュメは終える。

*1:本稿は読書会のために用意したレジュメである。