読書会。『いま、なぜゾラか』

2007年に『ジェイン・オースティンの読書会』が公開されたことが決定打になったのか、「読書会の流行」は実質以上にマスコミでもてはやされるようになっている。『読書会』の邦訳を刊行した白水社が「読書会ノススメ」という特集を組んだときは、白ワインがどうだのロハスがどうだのという押し出し方に辟易しないでもなかったけど、まあだいたい世の中は知的で洗練された雰囲気のもとに旺盛な性欲を包むことを美徳と考えるものだし、それはたとえば「「読書会」が密かなブーム!人気のカギは“出会い”だった!?」というR25の記事タイトルにも窺えるとおりだ。

でもそれは正しい。すごく正しい。『ソーシャル・ネットワーク』(2010)がFacebookを出会い厨御用達ツールと暴き立てたように、SNSのSの字のどちらかはおそらく元々セックスを意味していたんだろう。かといって直接「会いませんか」というのも気が引ける。誘う側も誘われる側も何か口実を欲するものだ。そういうとき映画や美術館や観劇行為というものが伝統的に性欲の知的表現として役立てられてきたし、それもすごく正しかった。しかし一対一というのもいささか勇気のいるものだから、そこに読書会の必然がある。知的な人間にしばしば性的魅力が欠けていることは認めざるを得ないものの、元来知性と性欲は相性がよいものである。

さて、2/21(木曜)の午後7時から高田馬場で読書会が催される。

テキストはゾラの『ナナ』(新潮文庫)

これは以前からフランス文学読書会として、かれこれ一年ほどやっているもので、次でたぶん15回目。

これまでに読んできたのは、ラシーヌ『フェードル』、ディドロ『運命論者ジャックとその主人』、ルソー『エミール』、サド『ソドム百二十日』、ユゴーノートルダム・ド・パリ』、ノディエ『ノディエ短編集』、ネルヴァル『火の娘たち』、ロートレアモン伯『マルドロールの歌』、フローベールボヴァリー夫人』『感情教育』、スタンダール赤と黒』、バルザック『あら皮』、モリエールドン・ジュアン』、クノー『厳しい冬』、これで全部だと思う。王道を突き進んでいる。

前回のクノー以外すべて参加してる私に言わせてもらえれば、この読書会はけっこう面白い。フランス文学にそれなりに詳しいひともいる。さほど興味ないひともいる。知らない者には知ってる者が長広舌をふるうので勉強になる(はず)。人数がそれなりに少ないので意志疎通に困難が生じたりはしない(はず)。適当に思ったことを語り合う場(間違いない)。
というわけで、暇なひとは来るとよい。出会いを求めに来てもよい。まあMummy-D曰く「どうせ出てきゃしないぜ男しか」だけど。いやそれも嘘か。
テクストはこれ。

ナナ (新潮文庫)
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ゾラ
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告知は以上。せっかくなのでゾラの紹介も。

真っ赤なゾラを見ただろうか?

ゾラという名前に聞き覚えはあるだろうか? 19世紀末の作家だ。

高等教育を受けた人間の頭の隅には「私は告発するJ'accuse」という言葉が残っているかもしれない。これはゾラがドレフュス事件というユダヤ人軍人の冤罪事件を告発したときの新聞記事タイトルで、クリストフ・シャルルの『「知識人」の誕生 1880‐1900』(藤原書店、2006)という本によれば、世に「知識人」というカテゴリーが登場したのはこの事件がきっかけとなってのことだという。それほどこの事件は(言論界を巻き込みつつ)第三共和政フランスを揺るがしたが、そこで冤罪解消に向けての世論形成に、ゾラが一役買った。これは彼のジャーナリスト的側面。

次に世界史の資料集なんかが好きだったひとは、こういう絵画を観たことがあるかもしれない。

これは『オランピア』や『草上の昼食』で有名な画家のエドゥアール・マネが描いたゾラの肖像画だ。いま観るとそれほど衝撃のない絵ではあるが、『オランピア』の登場は画壇を震撼させた。あまりに直接的に女性(しかも娼婦)の裸体を描いたためにスキャンダルになったのだ。不道徳との謗りを受けたマネは窮地に立たされる。そのマネの画才を擁護するべく論陣を張ったのがゾラであって、マネは彼への感謝のしるしにこの肖像画を描いたのだという。書斎の右上には当時流行のジャポニスムの絵が何故か飾られているが、その手前にあるのは『オランピア』だし、羽ペンの後ろにある書籍はゾラの『マネ論』である。これは彼の美術批評家的側面。

最後に、彼の作家的側面があるが、これが最後になってしまうのは何とも悲しい。文学史に少し知識のあるひとは「ああ、自然主義の作家ね」といい、『ナナ』や『居酒屋』を挙げる。しかしそこまでであって、しかも自然主義というのは退屈のレッテルと似たものであるから、ますます興味がもたれない。

それじゃいかん! ゾラはもっと面白いだろ!
という思いを抱いたゾラ愛好家たちが集い、彼の没後100年にあたる2002年から藤原書店で『ゾラ・セレクション』が刊行されている(未完結)。
詳しくは書店ホームページで確認願いたいが、なかでもプレ企画『いま、なぜゾラか』(HP紹介)は編者たちの熱意が垣間見られて面白い。

いま、なぜゾラか―ゾラ入門

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小倉 とにかくゾラは、日本では名前はよく知られているのにその多様な側面がよく理解されていないし、正当な評価も受けていない作家なんです。そのことにたいする義憤のようなものが、今回のセレクション立ち上げの根底にありました。[...](68頁)

はじめの鼎談からこれなので、とにかくゾラが如何に素晴らしいかを熱弁している。冒頭には「ゾラは人類の良心を体現したのである」と締めくくられたアナトール・フランスの追悼演説まで載っている。これはすごい。

先に触れたジャーナリスト的側面、美術批評家的側面、そして作家的側面(文学評論家・理論家としての側面と実作家としての側面)も、第三章「ゾラの多面性」で論じられる。
著者たちは19世紀の文化史や出版事情、絵画史に詳しいひとたちなので、ゾラという作家の豊かさがテクストの中からも外からも掘り下げられてゆくのは、快感の一言に尽きる。

とりわけ興味があるのは第五章「文学マーケット―バルザックからゾラへ」だった。
ここでは当時徐々に市場と結び付いてきた「作家」という職業を、ゾラが自らのものとしてどのように確立していったかが解説される。
それ以前の作家は年金生活をしていたので、生きるために書く、という必要がなかった。ゾラはそうではない。書くことが生きることなのだ。
ゾラについて次のような文章がある。

バルザックやゾラの言語は、それゆえ、ブルジョワ的な貨幣――揺るぎない金本位制、確固とした交換=兌換可能性、そして直接交換という中立的媒介手段に支えられた、安定した貨幣――と同一のステイタスを共有することになるだろう。(ジャン=ジョゼフ・グー著、土田知則訳『言語の金使い 文学と経済学におけるリアリズムの解体』新曜社、1998年、162頁)

引用は難しいので詳述しないが、作家の言語に対する関係は作家の貨幣に対する関係と似たところがある。哲学者ミシェル・セールはゾラ論『火,そして霧の中の信号』のなかで、ゾラにおける流通=循環のテーマ系を導き出しているそうだが(第六章「ゾラはこれまでどう読まれてきたか」参照。ドゥルーズクリステヴァブルデューをはじめとする現代哲学・社会学がどれほどゾラを参照項としてきたかまとめてある)、そこに貨幣の流通を読み込むこともまた正当だろう。

流通、循環、ゾラは絶えざる動きであって、そのエネルギーから蒸気のようなものが立ち込めてくるのを目の当たりにするとき、もう『ナナ』の緞帳は上がろうとしている。

白に金を配し、薄緑色に引立てられた場内は、切子ガラスの大きなシャンデリヤのキラキラする反射を受けて、まるで霧が立ちこめているように、ぼうっとかすんでいた。(『ナナ』新潮文庫、6頁)


マネによるナナの絵。画家が『オランピア』で女の身体を露わにしたのと同じように、作家は『ナナ』で女の身体性を露わにしている。
ナナはいつも鏡とともに描かれる。彼女の眼差しはいつも彼女自身に向けられている。