「我々は後ずさりしながら未来に入っていくのです……」ヴァレリー『精神の危機』など。

課題、ポール・ヴァレリーの『精神の危機 他十五篇』を読み、感想を書くこと。

危機の時代

危機というのは近代に本質的な現象だが(もちろん他の時代に見出されないというわけではない)、それは危機における時間意識に関係するのではないか、と思う。仮説を立てることが許されるなら、危機とは過去-現在-未来に対する意識の型である。まず、危機感を抱くときに我々の意識が現在に向かうことは疑いをいれまい。それは分裂、無秩序、頽廃としての現在であって、「このままではいけないのではないか?」という思いが危機を駆り立てる。しかし、そこからより根源的なものとして現れてくるのは過去である。分裂、無秩序、頽廃は、綜合、秩序、調和を想起させ(記憶のように想い起させる)、クロノロジカルな意味での過去を越えて「こうであったはず」の理想的過去が作り上げられる。現在の危機を免れるためには過去を「取り戻す」しかないと思われたとき、ひとは容易く伝統主義者になる。いっぽう、もっとも遠く、かつ扱いにくいのは未来である。未来とその予測不可能性は、これこそ根源中の根源と言いたいほどなのだが、それについて語ることはこれまで成功していない。伝統主義は未来を過去の延長によって解決しようとするが、それによって問題を回避している。革新主義はと言えば、その未来についてのヴィジョンは定義上楽観的であるから、現在の危機感を慰めるものは何もない。未来とその予測不可能性こそ、危機意識を不可避にしているところのものである。現実主義者は「危機なんてない、それを憂う連中が頭のなかで拵えたものにすぎない」と言うが、確かに危機はひとの意識のなかにしか現れないから、それは正しい。しかし彼らは現在を肯定するだけで、やはり未来を回避している。
危機が近代に本質的な現象であるのは、近代がとりわけ未来とその新しさに関わるものだからである。あとでもう少し詳しく取り上げるが、ジャック・デリダは、ヨーロッパが自らを危機の相において見つめ直し、自己同一性を取り戻そうとするたぐいの「自伝」的言説について、「その伝統的言説はすでに、近代西洋の言説でもあること」、「この言説の日付は、ヨーロッパがおのれを地平線上に、言いかえると、おのれの終末=目的(地平[horizon]はギリシャ語で限界を意味する)の方から、おのれの終末=目的の切迫の方から見るようになったときに始まる」(『他の岬』みすず書房、22-23頁)と言う。近代が直線的時間意識を特徴とするとはよく言われたことだが、直線が続くかぎり、その終りが近いのではないかという恐怖は絶えず付き纏う。目指していたはずの目的が、何故同時に終末の恐れを与えるのか? これは「働けば楽になる」という命題が「楽になったらどうすればいいのか」という疑問に答えないのと同じ構造をしている。こうして危機は近代に本質的で普遍的な現象であり、伝統への回帰と革新への猪突猛進と現状維持の惰弱さは、それに対する各々ユニークな態度表明である。

危機の定義

本題に入るが、ヴァレリーは危機についてどう考えているか? 彼はそれを問われた場合を想定している。

――危機だって、と彼はまず自分に言う、――危機とはそもそも何か? まずこの言葉の意味をはっきりさせよう! 危機とはある機能体制からもう一つ別の体制へ移行することだ。その移行はさまざまなサインや徴候によって感じられる。危機の間は、時間が性質を変えたように思われ、持続がもはや平常時のようには感じられない。恒常性ではなく変化を測るものとなる。あらゆる危機は、過去の動的ないし静的均衡を破る、新しい≪原因≫の介入を意味する。(「知性について」81-82頁)

危機を時間の性質に関するものと捉えたうえで、それは「過去」の「持続」が「新しい」ものによって破られることによって生ずるとするヴァレリーの分析は、上で検討した仮説に近い。そして現在は、「ある機能体制からもう一つ別の体制」への移行期間として、つまり一続きではない過去と未来に引き裂かれた過渡期として、定義されている。彼はこの危機が近代的な現象であることにも同意する。「それなら、我らがヨーロッパのこの精神的無秩序は何によって作られていたのか? ――それはすべての教養人におけるこの上なく多様な観念の共存、この上なく相対立する生と知に関わる原理の共存である。それこそ近代という一時代を画する特徴なのだ」(「精神の危機」14頁 )*1。なるほど危機がどの時代にも見出されるとしても、この危機ははるかに特異なものである。昔友人に「どんな時代も過渡期なのさ」と言われたことを回想しながら、彼はその返事としてコーヒーに角砂糖を入れ、次のように答えたことを記述している。「かなり前から砂糖つぼの中に入って、まあ鎮座していたと言えるこの砂糖は、現在、まったく新しい感覚を経験しているところだと思いませんか? 砂糖はまさに≪過渡期≫と呼べる時期にあるのではないかしら? 妊娠した女性は以前の自分とはかなり違った状態にいて、彼女の人生のその時期はまさに過渡期と呼べる時期ではないかしら? 彼女と赤ん坊のためにもそうあって欲しいね」。さらに付け加えて、今ならこう言うでしょう、と。「例えば一八七二年から一八九〇年までの年月を生き、ついで、一八九〇年から一九三五年までの年月を生きた人は、それらの人生の二つの時期の間に、何か歩調の変化のようなものが生じたと感じなかっただろうか」(「精神の決算書」179-180頁)。

ヨーロッパ精神の危機

さて、ヴァレリーが「危機」を論じたもののなかで最も高名なのが1919年発表の「精神の危機」である。もっとも正直に言うと、私の「知性」ではヴァレリーの考えていることをいまひとつ掴めない。危機の原因は何なのか? それについてのヴァレリーの説明は、異なる見解を併存させているようにも思える。また彼が危機を憂いてはいるが、そこから「だからこうすべき」という結論を導き出さない(安易な結論こそヴァレリーの嫌うところである)ことも、彼の危機感を複雑なものにしている。なによりヴァレリーは精神の危機を云々するが、その危機を招いたのは精神それ自体なのではないか、だとすればそれは自業自得とも言うべきものであって、危機でも何でもないのではないか、という疑問が湧いてくる。森本淳生も、精神と危機とは不可分のアポリアであるにもかかわらず(そしてヴァレリーはそのことに気付いているはずなのだが)、しばしば彼が「真の」精神を悪しき精神と対置させてしまっていることについて、その言説を辿りながら論じている*2。結果として彼の言説には、ヨーロッパの最良の伝統のみを温存して、そこに必然的に伴う掠奪や破壊のもう一つの伝統については素知らぬ振りを決め込もうとする節がうかがわれる。これもデリダが言っていることだが、ヴァレリーの精神観は、それ自体が主体による客体の操作・計算を生業としており、「環境との調和を打ち破ろうとする衝動」(「精神の危機」31頁)を有しているかぎりにおいて、西洋の病める形而上学を擁護する典型的な身振りなのであって、「ハイデッガーなら多分、『精神の危機』(一九一九年)の内にある[フッサールと]同じデカルトの遺産を告発したことであろう」(『精神について』平凡社ライブラリー、101-102頁)。こうしてヴァレリーはヨーロッパ中心主義者というレッテルを貼り付けられてしまう。
よく分らないながら私も「精神の危機」のヴァレリーを鼻持ちならないヤツとして読んでいた(ですます調の平凡社ライブラリー版で)わけだが、なんということもなく岩波文庫版の『精神の危機 他十五篇』を読んでいると、これは中々良いセレクションなので、ヴァレリーが非常に長い年月にわたって考えていることがオボロゲながらも伝わってくる。おそらく伝統というものを真に受けようとすればするほど、ヴァレリーのことばは重くなってくるのではないか。ヨーロッパ中心主義者と言い国粋主義者と言い、それを小馬鹿にするのは容易いものの、彼らもおなじ精神的兄弟である。それにヴァレリーの文章は、ヨーロッパの伝統に根差したものとはいえ、既述したような意味での伝統主義者とは歴然と異なる。二十年後はどうなるか、という問いかけに対して「我々は後ずさりしながら未来に入っていくのです……」(「「精神」の政策」156頁)と答えるヴァレリーによる危機の身振りは、時間に対する一つの特別な態度として検討されてもよい。デリダにしても、ヴァレリーを批判しているのではなく、その身振りを反復することから、彼なりにヨーロッパという伝統を引き継ごうとしているようだ。以下ではそれらを備忘録としてまとめる。
ちなみに同編に所収の十六篇は、「精神の危機」1919年、「方法的制覇」1897年、「知性について」1925年、「我らが至高善「精神」の政策」1932年、「精神連盟についての手紙」1933年、「知性の決算書」1935年、「精神の自由」1939年、「「精神」の戦時経済」1939年(?)、「地中海の感興」1933年、「オリエンテム・ウェルスス」1938年、「東洋と西洋」1928年、「フランス学士院におけるペタン元帥の謝辞に対する答辞」1931年、「ペタン元帥頌」1942年、「独裁という観念」1934年、「独裁について」1934年、「ヴォルテール」1944年と、先述のように非常に長い年月にわたって書かれているから、そこから一貫したものを取り出すのは、不正確なばかりか不可能な試みである。しかしまあ、ここでそういうことを気にしても仕方がない。

精神の変形力

まず、ヴァレリーが精神をどのように規定しているかをはっきりさせよう。
「この精神という名前によって、私は何らかの形而上学的な実体を意味するつもりはまったくない。私が意味するところは、ごく単純に、ひとつの変換する力のことである」(「「精神」の政策」125頁)。精神を「変形力puissance de transformation」とする規定は「精神連盟についての手紙」(159頁)や「精神の自由」(221-222頁)といったテクストにも見出される。「精神の危機」にはまだこの語自体は見出されず、「夢」と呼ばれているに過ぎないが、同じものを指していると考えられる。それはどういうものか。「私が言いたいのは、人間は不断に、かつ、必然的に、存在しないものを念頭に浮かべて、存在するものと対立する存在だということである。人間は自分の夢に、営々とした日々の努力によって、あるいは天才の発動によって、現実界が持つ力と精度を与えようとする。その一方で、現実界に徐々に大きな変更を加え、現実界を自分の夢に近づけようとするのだ」(「精神の危機」31頁)。「(いまだ)存在しないもの」による「存在するもの」の乗り越えという図式はサルトルの対自存在と即自存在という区別を思わせる。この変形力は人間にも動物にも備わっているように思われる(「「精神」の政策」135頁、「精神の自由」221-222頁)が、「我々は自発的に自らの生存領域を変えようとする動物種なのだ」というところに人間の精神=変形力の弁別特徴がある。より拡大しよう、発展させようとする、最大限を追求する欲望は、人間の精神に固有のものであり、とりわけヨーロッパにおいて顕著に見出される。「ヨーロッパこそその特権的な場であり、ヨーロッパ人、ヨーロッパ精神こそそうした驚異的な夢の実現の立役者なのである」(「精神の危機」36頁)。人間ということばで念頭にあったものはあっさりとヨーロッパ人に置き換わる*3。そのヨーロッパ人とはローマ、ギリシャキリスト教の影響を「歴史的に」受けたすべての人々を指すものである*4。「勝っているのはヨーロッパではない、ヨーロッパ「精神」である」(同、53頁)……。
大戦の直後に書かれた「精神の危機」においてはとりわけヨーロッパの拡大衝動が反省的に捉えられている。既に引いたが、「ヨーロッパのこの精神的無秩序」は「この上なく多様な観念の共存、この上なく相対立する生と知に関わる原理の共存」に由来するものであった。「思想家は、各人、諸々の思想の万国博覧会の様相を呈していた」(同、15頁)。ヨーロッパの地位が危機的状態にあるのは「ヨーロッパ自らが招いた結果として」(同25頁)であるが、それは本来芸術衝動として製作された生産物が商品に変貌して、交換の具に供されるようになったからである。市場は世界に行き渡り、工場において規格化された労働がすすむ。ヨーロッパは拡がりすぎた。伝播とその先での模倣は堕落をもたらす。ここでヴァレリーは排外主義の殆ど一歩手前にいる。「このような伝播がどのような結果をもたらすことになるかを予測し、それが果たして必然的にある種の堕落を引き起こすことになるか否かを探求することは、知的物理学の興味深くも、怖ろしく複雑な問題に首をつっこむことになろう」(同、27頁)。こうしてヴァレリーは「拡散」と「天才」を対置させ、枝ぶりを整えるかのようにして精神の放縦を刈り込もうとするのである。

科学技術と人間

しかし、このようにヴァレリーが撤退戦を行わねばならないのは、彼自身がヨーロッパ的知識人であるということから生ずる責任感と無関係ではない。それまで辿られていた道が大量破壊や虐殺のような事態を不可避なものとして呼び招くものだったとして、それをすべて廃棄して新しい道筋を辿り直すことは可能なのか? その新しい道筋が、また同じ隘路にはまらないということを、誰が保証してくれるのか? ヴァレリーが描き出してみせる知的ハムレットのように、「彼は幾多の発見、知識の重みに圧しつぶされて、新たな取り組みにとりかかれないでいる。過去を繰り返すことの退屈とつねに革新をのぞむことの狂気について考えている。彼はその二つの深淵の間でよろめいている」(同、17頁)。
このような過去と未来の深淵について、既に引いたように、彼はそれを「何か歩調の変化」と言い表していた。もちろん、これは平凡な議論である。急激に進む機械化とそれにともなう人間の物象化。「知性について」のヴァレリーは、「機械が支配する。人間の生活は機械に厳しく隷属させられ、さまざまなメカニスムの恐ろしく厳密な意志に従わされている」(「知性について」90頁)と言い、それが旧来の思考のリズムを乱してしまったと考える。「ということは時間が問題にならなかった時代が過ぎ去ってしまったのである。今日の人間はまったく短縮できないことは育てようとしない。じっくり待つことと、変わらないこと、この二つは我々の時代には負担なのだ」(同、89頁)。したがってそこから感覚の鈍麻が生ずる。「知性の決算書」では、大まかにわけて、人間社会の速度変化と予測不可能性の昂進によって、「感受性の退化」と「教育の無秩序化」が今日危機的状況として見出される、という。「現在の危機の起源は観念・知識の資本主義と精神の社会主義です」(「知性の決算書」183頁)。
したがってヴァレリーの全体的なヴィジョンとしては、自然科学技術・機械化による厳密で方法論的な人間観及び知識の集積と、人文社会科学におけるあいまいながらも十分に検討を重ねながら蓄積されてきた人間観及び知識の集積。ヴァレリーにはこの二つを区別することは本来できないはずである。何故なら「精神は秩序と無秩序を作り出す元締め」(「「精神」の政策」134頁)だから。注意しておきたいが、ヴァレリーはこういう区分をしばしば採用するからといって、典型的に反科学的な主張をするタイプの人間ではまったくない、ということである。むしろ彼は厳密を好み偶然を排そうとする好みさえある。

私は観念の亡霊、思想の大風呂敷、意味が精神の眼から逃げ隠れするような言葉は好きではない。漠然とした事物には我慢ならない。これは一種の病気、特殊な苛立ちであって、生とは対立する。なぜなら、生とはあいまいさなくしては存立不可能なものだからだ。生をとりまく状況はあくまで多様で偶発的だから、どんな厳密さも受け付けない。出来事は予測不能であり、予測不能こそ世界の最も確実かつ不変の法則であって、それは我々自身が作られている組織のなせるわざである。(「オリエンテム・ウェルスス」289頁)

[こうした記述は、私には、ヴァレリーの最も「あいまいな」部分を露わにしているように思う。彼は厳密さを好み漠然には我慢ならないというが、それを「一種の病気、特殊な苛立ち」と認めている。反対に生は「あいまい」で「偶発的」であり、世界が「予測不能」であることは「世界の最も確実かつ不変の法則」でさえある。にもかかわらず、別のところでヴァレリーは、予測不可能なものの出現こそ今日の脅威だと言う。

私が≪渾沌的≫と呼んだこの状態は人々の作品と営々たる労働の複合的産物です。それは多分ある種の未来を喚起するものですが、それがどういう未来なのか我々が創造することはまったく不可能なのです。そしてそれこそ新事態の中でも最大の新事です。我々はもはや既知の事象から、いくらかでも、信憑性のある未来の形象を導き出すことができないのです。(「精神の決算書」174頁)

しかしヴァレリーの定義において、精神はそもそも反復を拒み新しいものを作り出してゆくかぎりにおいて、時代を問わず予測不能である。そうしたものをできうるかぎり捉えようとするところにヴァレリーの特異さがあるのではないかと思う。明晰性と曖昧性とはヴァレリーを理解するための試金石でさえあるだろう。しかし当座の議論に戻るなら、]ヴァレリーが科学の厳密さを人間の生を疎外するものと捉えていることには不可思議な部分が残る。
とりあえずヴァレリーが古典(伝統的な科学も含まれる)とアクチュアルな知とを区別していることを受け容れよう。だからといって、彼は別に古典を一面的に擁護しているわけではない。そのことは彼が古典教育について述べているところから窺われる。「量的に増大する一方の知識と、是非はともかく、我々が絶対的に優れていると思うばかりでなく、我が国特有なものと考える或る種の質を保存しようとする気持は、なかなか両立しないものです。」(「精神の決算書」200頁)「どうも教えようとしている内容が、いわゆる古典といわれる伝統と、子供たちの目を現代の途方もなく発達した知識や活動に開いてやりたいという気持との間で分裂してしまっているように見えます」(同、202頁)。
ここにもやはり「二つの深淵の間でよろめいて」いるヴァレリーがいるわけだが、彼はしかし、この分裂に途方に暮れるだけでは一つの重大な問いが提起されない、と言う。これは重要な個所だと思う。

――何をしようとしているのか、何をしなければならないのか?
ということはある決意、決定をしなければならないということです。問題は我々の時代の人間とはどういう人間であるかをきちんとイメージすることです。子供がこれから生きていくことになるはずの社会における人間の観念がまず確立されていなければなりません。(同、202頁)

別の箇所では「伝統と進歩が人類の二大敵であることは明らかである」(「東洋と西洋」311頁)とまで言っているヴァレリーにおいて、守株的態度が了とせられないのは明らかである。古典を引き継ぐにせよ、新しい知識を受け容れてゆくにせよ、それを身につけるのは人間であり、その人間が何者かということについての社会の共通了解=信頼が確立されなければ、如何なる知識も役に立たない。

政治という神話

科学的知識が危機の相において見られるのは、まさにその点において、つまり、科学知に随伴する人間の観念を無批判に受け取られてはならないからである。同時に、古典的な人間観に立脚したままの政治も、厳しい批判に晒される。

どんな政治にも何らかの人間の観念がある。[…]政治にはすべて人間や精神についての何らかの観念があり、世界観があることに変わりはない。ところで、既に示唆してきたことだが、現代世界において、科学や哲学が提起する人間の観念と法律や政治・道徳・社会が適用される人間の観念との間には距離があり、その溝は深まりつつある。両者の間にはすでに深淵が口を開いている……。(「「精神」の政策」138頁)

ここでもやはり深淵である。科学(や哲学)はそれ自体において批判の的になるわけではない。むしろ、その厳密さこそヴァレリーの態度の根幹にあるように思われることは、既に述べたとおり。しかしそれが提起する人間の観念は、果たして生と存立可能なものであろうか?

一例をあげよう。政治の世界に現代の科学思想が我々に教える人間の概念を適用したら、人生は、我々大部分にとって、恐らく、耐え難いものになるだろう。徹底的に合理的な所与を厳密に適用したら、一般感情のレベルで、反乱が起こるだろう。その場合、実際に、各個人にレッテルが貼られ、個人のプライバシーにも踏み込んでくるような事態が起こるだろう。劣等形質を持った人間あるいは欠損者は排除されたり、抹殺されたりするかもしれない。(同、139頁)

「かもしれない」ではなく、「排除されたり、抹殺されたり」しているのではあるが、やはりここで興味深いのは、既に述べた「漠然とした事物には我慢ならない」というヴァレリーの態度自体が、そのまま「我々大部分にとって、恐らく、耐え難いもの」と言われていることではないか。ヴァレリーはあいまいさに我慢できないが、あいまいさこそ生の原則である。そして別のときには彼自身が、厳密さを批判する。「曖昧さの時代、緩慢な時間の時代」(「精神連盟についての手紙」167頁)に対する彼の憧憬は、これもまったく明らかである。予測不可能な未来を「危機」と捉えるヴァレリーの思想は、このアポリアを措いては語り得ないようにも思われる。
政治の問題に戻ろう。「この科学的真実と政治的現実との対立は、近年注目されるようになった新事態である」(同、139頁)。ヴァレリーが「絶対的に優れていると」思う古典と「はっきり申し上げましょう。政治の世界で行われていることを見るとムカムカします。恐らく、私はもともとそういうものを見るようにできていないのでしょう」(精神連盟についての手紙、168頁)という政治とを同一視することはできないが、両者がともに古い精神・人間観に依拠しているという点では近いのではないかと思われる。違いは、我々は古典からは現代を学び、精神を新たにすることができるのに対して、政治はそれ自体惰性化した精神と化している点にあるのではないか。

社会的・法的・政治的世界は本質的に神話的世界である。神話的世界とは、すなわち、その世界を構成する法律・基盤・関係性が、事物の観察、事実認定や直接的知覚、によって与えられたり、提起されたりするのではなく、逆に、我々の存在そのものから、自身の存在や力、行動力や抑止力を得ているような世界である。そしてその存在や影響力はそれが我々から、我々の精神から来ていることを我々が知らなければならないほど強固である。(「「精神」の政策」144頁)

政治は惰性的で、古い精神に拠っている。古典は古い精神であるが、依然として動いている。そのように分けられようか。このように政治的世界を「神話的」と呼ぶことについては、(これもいずれ触れるつもりだが、ジャンニ・ヴァッティモが『透明なる社会』の第三章「再発見された神話」で述べているように)それが「未開なものとみなされ、いずれにしても、科学的な知にくらべて、客観性に欠け、すくなくともテクノロジーの裏打ちがないといった特徴を帯びている」(『透明なる社会』、46頁)かぎり、単一な歴史形而上学にもとづくありふれた議論の一種である。要するに進歩や発展、明晰化によって神話からは脱却されねばならない、ということを前提にしている。
しかしこれらの記述はヴァレリーの思索をある程度は理解させてくれる。ヴァレリーは単に政治に批判的であるというよりかは、それが無批判に前提としている精神の惰性的な様態を批判しているのであって、その惰性化がアクチュアルな人間の在り方とのあいだに齟齬を来していることを批判的に検討している。それはひととひととの間の信頼関係を惰性化してしまう。「要するに、信用性の危機、基本的概念の危機、ということは、あらゆる人間関係の危機であり、人間精神によって授受される諸価値の危機である」(「「精神」の政策」150頁)。
したがって、ヴァレリーが「良き精神」と「悪しき精神」とを分けて、前者のみを掬いあげようとしている、という判断はもう少し留保が必要かもしれない。合理的精神は、それがそれ自体悪いものではない。しかしそれを判断すべき政治や法といった人間諸学は、古い精神をそのまま引き延ばして用いており、まったく統一がとれない。結果として、政治には不信が生じて、技術の利用によってひとは無意識的にそれに適合した精神的態度を採用することになるけれども、そのことによって信頼が取り戻されるわけではない。それは政治的な問題なのではないか?

感受性・文化・理想の多様性はヨーロッパを定義するものですが、多様なものが衝突すればヨーロッパは分裂してしまいます。その意味でもそれらの和合が可能でなければなりません。その和合を支える原則は精神に対する信念と信頼感です。(「精神連盟について」159頁)

独裁の誕生

とはいえ、ここでいう政治の待望論は、同時にきわめて危険な可能性を孕んでいるようにも思われる。独裁についてのエッセイからそれは窺われる。「反省的思考と公的秩序の混乱とが出会ったとき、唯一形成されるのがそれ[独裁]なのだ。意識的か否かは問わず、みんなが独裁を想うのである。各人が心の中で独裁者が生まれつつあるのを感じる」(「独裁という観念」338-390頁)。
「要するに、精神が自分を見失い、[…]政治システムの変動や機能不全の中にもはや見出すことができなくなったとき、精神は必然的に一つの頭脳の権威が可及的速やかに介入することを、本能的に、希求するのである。なぜなら、様々な知覚、観念、反応、決断の間に明確な照応関係が把握され、組織され、諸事象に納得できる条件や処置を施すことができるのは、頭脳が一つのときだけに限られるからだ」(同、390-391頁)。
もちろんこうした政治が対立者を「排除ないしは疎外」(同、396頁)することは明らかであり、自由は容易く放棄されてしまう。「新しい形」(「独裁について」404頁)を模索するなかで、その種の独裁者への安易な希求が出現してしまうことについて、ヴァレリーは「感心できない」と言う。しかし、物のように人間を扱う独裁者を批判しつつ、彼がペタン元帥を讃えるのは、彼が自らの率いる軍人たちを「人間的に」取り扱ったからであるが、果たして独裁者が独裁的であるのは人柄に由来するだけなのだろうか? ペタン元帥を讃える彼の態度は、「精神」の再興を望む彼の所論と一貫したもののように思われるが、「精神」という「指導者」を期待する点において、ヴァレリーが多様なものの美学から離れつつあることが見て取れるのではないか。
ヴァレリーの考えは、個々の精神活動の独自性を尊重しつつも、それらを統率する大文字の精神の一体性については保持しようとするものに思われる。「一個の精神は比類がないと同時に任意の一点である」(「「精神」の政策」137頁)のであり、個々の精神は他人と異なるものであることを望む。「他人と同じように考えずにいられない人間は、恐らく、そうした合意を嫌う人間に比べて、精神度が低い」(同、138頁)。しかし、精神のそれら特異なものの空間全体を保つにたる「精神とは何か」ということについての合意(社会契約)は必要だ、というのがヴァレリーの考えに含まれているように思われる。リベラルが個の自由を主張しながら、自由を尊重するという価値観に反するものは認めないように?

人間とは何か?

「我々の時代の人間」の観念が作られねばならない、というとき、ヴァレリーは伝統に縋るでも進歩にすべてを賭けるでもなく、今日、人間とは何か、ということを、政治的惰性に拠らず、科学的合理性に唯々諾々と従うのでもなく、考えようとしているように思われる。しかし、そうして見出された人間の観念が、彼の期待するものとは異なり、それまでの伝統からすれば、まったくの断絶を遂げたもののように思われるとき、果たしてひとはそれを受け容れることができるだろうか? それが人間ではなく、非人間でさえあったときには? 
「我々は後ずさりしながら未来に入っていくのです」ということばの意味と重みが、少しだけ理解できたように思われる。

*1:「すべての教養人における」という記述が何とも言えない。結局のところヴァレリーにとっては精神もその危機も知識人の問題としてしか提起されないように思われる。凡庸さと天才(ジェニー)とを対比させるときにも。「水の中に垂らした一滴の葡萄酒は、一瞬、水をほのかに色づけると、バラ色のけむりのようになって、消えていく。それが物理現象である。しかし、バラ色が消え、もとの静かな水に戻った数分後に、純粋な水に戻ったように見えた水槽の中の、ここかしこに、ほの暗く純粋な葡萄酒の幾滴かが姿を現したとしたら、――驚きはいかばかりか……。/カナの祝宴とでもいうべきこの現象は知的・社会的物理学においてはあり得ないことではない。ひとはそれを天才(ジェニー)と称し、拡散に対置する。」(「精神の危機」27頁)

*2:現代社会のもたらしたこうした刺激過多、利便性、記号の反乱[ママ]、個人の均等化、軽信、無意味な玩具、義務の多さ、成熟する時間の欠如などが「精神」そのものを危機に陥れるとヴァレリーは警告する。しかしこのような事態をまねいたのがまさに「精神」自身であり、しかもそれが何らかの偶然的な事故によってそうなったのではなく、「精神」自身の本性によってそうなったのだとすれば、そしてさらにすでに述べたように、「精神」自身が愚劣な戦争行為までをも引きおこしたのだとしたら、ヴァレリーがしばしば行うように、ただ単に昔の職人の亡霊を引き出したり、自由な芸術活動や学問探究を賞賛したりするだけでは、問題は解決されるどころか逆に隠蔽されてしまうだろう。その場合は、「真の」精神を物質文明に抗して「防衛」することのみが問題になるだろうからである。ヴァレリーはしばしば「曖昧」なかたちでこのような「隠蔽」に加担しているように見えるとはいえ、最良の場合、このような偽の問題をかろうじて逃れ得ているように思われる。」(森本淳生「「危機」のディスクールヴァレリーと「ヨーロッパ精神」の隘路」『仏文研究』1999、181頁) ちなみにこれ以外の文献には目を通していない。

*3:それもおそらくは、フランス人へと変わってしまう。ルソーが人間の弁別特徴としていた自己改善能力(ペルフェクティビリテ)が、ミシュレにあってはフランス人に固有の特徴となってしまうように。ツヴェタン・トドロフ『われわれと他者』法政大学出版局、2001年、330頁

*4:だとしたら我々だってヨーロッパ人になれるのではないか。