デリダの『精神について』ちょこっと。

誰かが「精神」ということばはespritの適切な訳語ではない(というか、適切な訳語なんてないのでしょうけど)と仰って、どう訳すのがより心地よいか、と問うていた。精神には神がいる。神という字は、しめすへんと、申=カミナリの合成。しかし精という字も忘れてはなるまい。こめへんに、青というのは澄んだという意味らしいが、これを併せて、米を選り分け綺麗にするということ。このあたり、農耕民族の伝統を見出す誘惑に駆られる。ことばは棲みかである。

デリダの『精神について』を読み終える。pneuma, spiritus, esprit, Geistの連なり。翻訳と翻訳不可能性を意識しながら連ねられる言説。たとえばハイデガーがドイツ語Geistを、ギリシア語pneumaとラテン語spiritusのとりわけ主意主義的でない伝統に位置付けようとするとき、そして同時にその語を脱キリスト教化しようとするとき、一つの異議申し立てが現れる。

権利上の問い――何がこの三角形[引用者註:pneuma, spiritus, Geist]の閉鎖を「歴史的に」正当化するのか? この三角形は起源からして、かつその構造自体において<聖書>のギリシア語次いでラテン語がpneumaとspiritusで翻訳しなければならなかったもの、すなわちヘブライ語のruah[気息]へと開いたままなのではないか?」(168頁)

ハイデガーの思惟のなかで、とりわけ我々を戸惑わせるのは、彼がドイツ人/語とギリシア人/語に与える特権性である。『シュピーゲル』のインタビュアーに技術的世界の方向転換に「ドイツ人が或る特別な適格性をもっているとお考えですか?」と尋ねられたときの有名な返答は次のようなものだった。

「私はドイツ語がギリシア人たちの言葉と彼らの思惟とに特別に内的な類縁性をもっているということを考えるのです。このことを今日繰り返し確証してくれるのはフランス人たちです。フランス人たちが思惟し始めると、彼らはドイツ語を話します。彼らは、フランス語では切り抜けられないといことを確証します。」(「シュピーゲル対談」『形而上学入門』(平凡社ライブラリー、1994年)所収、402-403頁)

フランス人/語への明白な侮蔑に対して、怒るか恥ずかしがるかは、フランス人が自らの言語にもっている自負に由来するだろう。デリダはどうか?

「このような特権を正当化する「論理」は[…]気分によっては、あるいは最も深刻な、あるいはこの上なく楽しみな諸々の考察を呼び求める(そこがハイデッガーにおいて私の好きな所だ。私が彼のことを考える時、彼のものを読む時、私は同時にこの二つの揺らめきを感じる。それは恐ろしく危険でばかにおかしい。間違いなく重大であり、かつ少しばかりコミカルだ。)」(113頁)

楽しみ、笑う――怒りもせず恥じもせず。疑いなき重大さを受け止めつつ、それとまったく同時に、そのコミカルさを笑う。そして次のように言う。「もっと機知を、やれやれ![de l’esprit, que diable !]」(115頁)
このようにデリダハイデガーに異議申し立てするとき、彼が拠るのは語のフランス的な意味におけるエスプリ(機知)である。ハイデガーはそれをしばしば批判していたのだったが。

「まさしく、<精神>とは空疎なる俊敏さでも、たわいもない機智の遊びでも、悟性的分析の際限なき行使でも、ましてや世界理性ですらないのである。精神とは存在の本質へむけての根源的に規定された決意である。」(「ドイツ的大学の自己主張」『30年代の危機と哲学』(平凡社ライブラリー、1999年)所収、111頁)

「機知に富んでいる(ガイストライヒ)-だけのものとよく言われるが、これはじつは精神(ガイスト)に富んでいるように装うものであり、精神がないことを隠しているのである。」(84頁)

しかし精神を機知から切り離すことは可能であろうか? それを「たわいもない」ものと済ませてしまうことはできるか? デリダはこの講演を通して、ハイデガーにそんな風に問いかけているようにも思われる。

このコミカルさに敏感であり続けること、さらにはしかじかの術策を前にして笑う術を知っていること、それは(倫理的ないし政治的な、と言ってもよい)義務とチャンスになりうるであろう。それも、カントからハイデッガーに至るまでドイツ哲学者がWitz[機知]やwit[ウィット]や(「フランス的」)「エスプリ」に、エスプリから来る[=精神の(de l’esprit)]チャンスに対してあからさまに嫌疑の圧力をかける、その嫌疑にもかかわらず。(211頁、原注13)

この引用でデリダハイデガーを笑うことの義務とチャンス(幸運)について、倫理的ないし政治的なニュアンスを加味していることは見逃されるべきではない。Geistという語は、「ハイデッガーの道程、数々の言説、そして歴史がもっている最も不安な諸々の場所へと赴く」(13頁)ものである。だからデリダは「これらの語は避けうるものだろうか?」(9頁)という問いから講演を始め、「避けようもなく」(190頁)ということばで講演を結んでいる。「精神」という語をハイデガーが肯定的に(鍵括弧なしで)用いはじめるのは「総長就任講演」(前掲書)や『形而上学入門』(前掲書)といった、ナチズムとのかかわりが今日においてさえも問い質されているテクストにおいてであり、精神への思惟は「そのものとしての政治的なるものの意味自体を決定するのだ。」それゆえにこそ、ここで精神を機知へとずらしてゆく動きは倫理的であり政治的である。
私はハイデガーデリダというのは非常に食い合わせがよいというか、ハイデガーに対する胃薬(別に「ファルマコン」と呼ばれてもよいが)になると思うのだが、それはたぶん、ここに現れているようなGeistとespritの相互-抗-争(polemos !)が、とても心地よいからだと思う。その意味で、De l’espritと題された本書は『機知について』とも訳せるのだが、それが宛てられているハイデガーのために『ハイデガー入門』と題されてもよい。もっとも後から読まれたほうがよいという意味では『ハイデガー後門』と題されてもよく、またmot d’esprit(だじゃれ)をもっと低俗にするなら、胃を通り抜けて『ハイデガー肛門』と題してもよい。