知られざる石川淳──渡辺喜一郎『石川淳傳説』を読んで

石川淳という作家を考えようとすると、私はとたんに戸惑ってしまう。いったい彼の何を論じればいいというのか。その困難さの一つには作家の明晰さがある。たとえば、評論『森鴎外』は一見した所、江戸っ子の歯切れの良さで、ほとんど独断的に、そして破れかぶれに論がすすめられているようにもみえるが、仔細に辿ればそこには緻密な構成がうかびあがってくる。そもそも石川の文学の出発点にアナトール・フランス芥川龍之介といった形式美を追求した作家の存在がひかえているということは周知の事実であろう。初期小説「佳人」の主人公は、つい句を詠んでしまうといった、詠嘆癖をもつ「わたし」だ。そこには一つの風景や感情を、すぐさま伝統的な形式美に移行させようとしてしまう自分の生来の癖が現われている。この惰性的な明晰さから逃れるべく、アランの「ペンと共に考える」ということを石川は自身の創作法とするわけだが、その結果にできあがった文章に、禁じられた詠嘆、あるいは石川自身の言葉を用いれば「一字一字に鑿の閃きを宿し」(「『狭き門』跋」)つつも、常に自らのシステムの外部へと運動しようとするエネルギーを私たちは認めることができる。各々の文章がそれぞれ自律的な運動を宿しつつ、作品全体に向かって力が発散していくさま、そしてそれを自在にコントロールする石川の圧倒的明晰さを前に私は立ちすくんでしまうのである。
もう一つの困難さは、作家の韜晦癖にもとめられる。「佳人」の次の有名な一節は石川の創作態度を要約するものといってよい。

もしへたな自然主義の小説まがひに人生の醜悪の上に薄い紙を敷いて、それを絵筆でなぞつて、あとは涼しい顔の昼寝でもしてゐようといふだけならば、わたしはいつそペンなど叩き折つて市井の無頼に伍してどぶろくでも飲むはうがましであらう。わたしの努力はこの醜悪を奇異にまで高めることだ。(『石川淳全集 第一巻』p. 186)

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石川の作品における自伝的要素は、同時代の諸作家に比べてみても、極端にすくないが、その理由の一端をここに求めることができるだろう。短編小説「いすかのはし」やエッセー「ジイドむかしばなし」といった、自らの生を直接的に語った数少ない例も存在するかもしれないが、それは「サーヴィス」(「ジイドむかしばなし」)にすぎない。宇野浩二とおなじく、あるいはそれ以上に、石川は「文学の鬼」であり、「文学」を「生活」と切り離して思考していた。それはまた、別の角度から言えば、「文人」であった(あるいはそれを「気取って」いた)石川の自負でもあったろう。だが、そこには妙な屈折がある。たとえば、石川は、政治を論じることを「俗」とし、美学的に極端に嫌っていた。しかし、彼が若い頃、クロポトキンバクーニンをおおく読み、大杉栄関東大震災の騒動において虐殺された時には、ほとんど仲間が殺されたような衝撃を受けてもいたし、もっと言えば、彼は若い頃(大正十三年・石川二十五歳頃)、マルクス主義に傾倒し、「九州帝大の経済学部に入学」(本多顕彰「一昔前の石川氏」『作品』昭和十二・四)しようとしたこともある。石川の「政治嫌い」は、生理的にして直線的な選択ではなく、むしろ屈折してかなり意識的、あるいは美学的なものであった。「現実的生活」をほとんど書かないという石川の選択もまた、その政治へのスタンスと同じく、非常に意識的なものであったと言えるだろう。すくなくとも、彼の作品だけを読む限りには、私たちはその実生活についてほとんどうかがい知ることができない。実生活の公開拒否については作品外においても徹底されており、「日本文学全集」の類に付される作家年表に両親の名前も載っていないという事実を指摘することができる。しかしながら、文学がつねにどこかで生まれた一個の人間によって作成されるものであるかぎりは、文学そのものに価値があるのだからその美に耽溺すればよいという簡単な話に収斂することは出来ず、その作家の実人生を勘案する必要性は(少なくとも私たちの時代から隔たった人の書物を読む際には)小さなものではない。石川の場合、その生活のほとんどが闇に包まれていた。そのうちでも、二十代に小説を発表してから驚くべき完成度を誇る小説の発表をはじめる三十五歳にいたるまでの十五年の空白期間はヴァレリーの沈黙とも比される神秘をたもっていたといってもよい。それだけではない。彼の幼少期の出来事や、戦中生活に関しても、そのほとんどが謎なのである。そこにおいて、私たちは驚くべき書物をもっている。
石川淳傳説
石川淳傳説
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渡辺 喜一郎
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渡辺喜一郎石川淳傳説』(右文書院、2013年)である。渡辺さんは高校教師をお勤めになる傍ら、『石川淳研究』(明治書院、1987年)や『石川淳伝』(明治書院、1992年)において、石川の中学以来の友人へのインタビュー調査や、ほとんど知られることのなかった石川二十代の創作作品の発掘など、すでに他を圧倒する石川の伝記研究の腕をふるっていた。『石川淳傳説』は、まさにそうした仕事の集大成と呼びうる出来栄えになっている。……とはいえ、私は渡辺さんの素晴らしい研究作業を大変な興奮をもって読んだことは事実だが、同時に奇妙な不快感をも覚えたことを告白しておかねばならない。その理由に、石川の「虚像=巨像」(渡辺喜一郎「虚像はいつしか巨像に─読者の網膜に実像を結ばせない独自なスタイル─」『石川淳伝』)に心酔していた自分への戸惑いを挙げることも出来るが、もっとも大きい理由は、石川が隠したかっただろう諸々の事実をこうもあけすけに公表することは道徳的によいことなのだろうか、という疑問を持ったからである。おもうに、作家の伝記的研究と「ストーカー」のちがいは、一概に判断できるものではない。これは非常に繊細な問題に属するはなしであろうから、ここではその倫理的判断をとりあえずは留保しておこう。ともかく、読んでしまった以上は私もまた共犯者である。
渡辺さんが石川淳を読み始めたのは1970年代のことであるというから、渡辺さんと石川淳のおつきあいは、40年以上にわたるものである。単著を出されてから数えても、25年以上数えられる。この執念のお仕事についての驚くべき告白をもって、『石川淳傳説』は始められる。

戦後の流行作家・石川淳の出発は、海老名宅での下宿生活から始まった。わたしは上京のたびに海老名を訪ねた。取材した内容を少しずつ文章にして発表した。その都度石川に送った。どうもその「伝記的研究」がいけなかったようだ。昭和六十一年二月に来た石川からの最後のハガキには「貴下の書くものが不快で気に入りません」などと来訪などを断る文面であった。前年までの七通の〝電文〟のようなハガキはすべて好意的であったのに。(p.7)

この重要なエピソードは、それ以前に発表された論文がほとんどを占める『石川淳研究』はともかくとしても、その後に書かれたはずの『石川淳伝』においても見られないものである。作家が生きている時分に、自身があえて明らかにすることのなかったプライベートを暴き立てるのは無思慮であり、石川のその怒りは至極真っ当であると思うが、それにしても、石川との「悲しき別れ」から論をはじめる渡辺さんの姿勢には並々ならぬ誠実さを感じずにはいられない。じつにこの書は、「石川淳文学がもっと読まれて良いのではないかという素朴且つ切なる願い」(p. 255-6)によって衝き動かされているのであって、いわゆる暴露本とは意を異にしていることは強調しなくてはならない。逆に言えば、それほど暴露本として受容される可能性をもったものでもある、ということだが。
私は、「虚像=巨像」としての石川淳が壊された、と言った。博学にして無頼、通人にして俗世をあそぶ文学の巨人といった、世間に流通しているだろう石川とはまったく異なった人物がそこでは描かれているのである。非常に繊細なくせに生意気な腕白小僧、そして文学の理想に燃えつつも現実においてたえず挫折を味わっていた、一人の小柄な男である。本書の扉には、避暑地の河原で撮られた、中学期の石川淳と兄武綱の写真が飾られている。久保田万太郎とも親交があった文学青年武綱は、理知的で深刻そうな面持ちで正面をじいと凝視しているが、淳のほうは、純朴だけれどどこかしらいたずらそうな笑みを浮かべて、遠くを眺めている。この写真は渡辺さんの書物をまさに象徴しているように思われる。描き出されるのは、まさに後の石川によって秘匿とされた、知られざるこの繊細な腕白少年の姿なのである。
渡辺さんは、この腕白少年を描き出すにあたって、その祖父母から話をはじめている。おそらくここまで詳細に明らかになったのもはじめてのことであり、それを公にすることのできた功績は非常に大きいものであろうが、私がここでとくに強調したい記述は父斯波厚についてである。斯波厚は、いわば超エリート・サラリーマンであった。銀行員を勤める傍ら、明治28年(1895年)には東京市議会議員選挙に立候補し当選する。明治44年には銀行の取締役にもなっていたという。しかし、大正5年(1916年)には斯波厚が取締役をつとめた銀行は破綻し、その五か月後には文書偽造、詐欺横領罪において斯波厚は逮捕される。ついで、大正9年1920年)、石川が外語大を卒業し、日本銀行に就職したその年に、「東京市政施行以来の大疑獄」事件が世を賑わし、斯波厚は偽証罪に問われ、収監された。新聞では「妾狂い」と中傷されることもあり、大正14年(1925年)に結審が下るまで、斯波厚は日陰者として生活することを余儀なくされる。これらの事件による凋落は、石川が17歳から26歳にいたるまでの出来事であり、これら一連の騒動が石川にとって無関係であったはずがなかろう。もちろん、そうした実生活が石川文学に「反映」しているなどというつもりは毛頭ないという当たり前のことをことわった上で私が言いたいのは、石川淳という存在を全体的に把握しようとつとめるのであれば、これは看過することのできない出来事であるということだ。たとえば石川がアナキスムやマルキシスムへと傾倒する背景にはこれらの出来事が影を落としているとも言えるだろうし、この「士族の凋落」は、文人の「気取り」を理解する一助になるかもしれないと私は考えている。
ここに挙げたのは渡辺さんの書物で描かれた石川淳の出来事の一例にすぎない。他にも、カフェの給仕と結婚するもののすぐに病気で亡くしていたり、自分の子供を兄武綱に預けていたり……等と、今までほとんど知られることのなかった石川の姿が克明に描写されている。それらの出来事について興味を持たれる方は、渡辺さんの『石川淳傳説』をぜひお読みいただきたい。渡辺さんはそれらの出来事に過剰に意味付けを行うことなく、「傍観者」の立場を保持している。しかし、「傳説」を草すのであれば、事実を淡々と述べていくのではなく、後の文学作品をもふんだんに活用して、そこに石川淳という生き生きとした人間を描くべきではなかったか、という不満も残る(これはいずれ書いてみたいと思っている)。石川淳の偉大さとは、そうした現実世界の生活から遠く飛翔し、「醜悪を奇異にまで高める」文学を作りえた偉大さに他ならないからである。とはいえ、渡辺さんの力作が昭和の大作家石川淳を理解するために大きな前進をなすことはもはや疑う余地のないが、射程をより遠くに設定すれば、私見ではいまだ不遇の評価を受けている石川の像を正確に浮かび上がらせることを通じて昭和文学史をも塗り替える潜在力をも秘めているのではないだろうか。