読書会。『ランボー 自画像の詩学』

実はちょっと消沈している。

こういう真面目な宣伝ツイートをしたのだけれど、今回は新しく参加してくださる方がいない気がする。
何故なのか……慢心、環境の違い
ツイート自体はけっこうRTしていただいたのだが、元を辿ると「興味あるけど『イリュミナシオン』は無理!」という類のコメントがあったりする。
これは一因かもしれない。ランボーの詩のなかでも、特に『イリュミナシオン』は難解であるとされている。
じっさい、前回の読書会の終わりに「次は『イリュミナシオン』にしましょうか」と提案したとき、「いや、それは難しい……」というH君の間髪を入れない突っ込みがあった。
そしてその難しさはいま身に染みて感じている。
今回、詩の感想を皆さまにお願いしているわけですが、それを課した当人が一番難儀しているかもしれない。

じゃあ何故『イリュミナシオン』を選んだのかという話ですが、特に理由があるわけではない。
最近似たようなタイトルの同人誌が出たし、TL上にちらほらランボー読んでいるらしい男女がいたものだから、少なくともアテをつけたひとの誰かは来てくれるだろう、という。要するに受け狙い。
ところが完全にアテが外れている。とても悲しい。
先日飲み会でランボーの話になったときに、「ランボー大好きなんです! シャルルヴィル(ランボーの生家)に墓参りに行きました! 『イリュミナシオン』が最高ですよね!」という女性がいたほどなのです。素晴らしいのですよ?
誰か来ないものかしら。

時よ来い 時よ来い
みんなが熱狂するかの時よ

とかなんとか。

ランボー 自画像の詩学

消沈ムードなのでちょっとおざなりな紹介になってしまう。

詩に何を求めるか、これはひとによって大いに異なるだろう。
わかりやすい例を挙げれば、ロマン派的なメランコリーに浸り、歌い手の倦怠に同一化する、というのが思い浮かぶ。
そのうえ哀しげなルフランがあって、その余韻を反芻することができれば、実に素晴らしい詩的体験が得られるだろう。
ところが、ランボーほど、とりわけ後期の彼になるほど、そういった「余韻」が似つかわしくない詩人もいない。と私は思う。
たとえば『地獄の一季節』を読み終えたひとは、わけがわからないと思いながら、弱冠にすら至らない青年の地獄の格闘を目の当たりにして、とにかく強い衝撃を受ける。
そして殆ど理解も及ばないままに、「訣別Adieu」という別れの(というより出立の)詩を読むことになる。
そこには確かな実感と、余韻と呼んでよいものが存在する。
ところが『地獄の一季節』のあとに『イリュミナシオン』という詩が存在する。
これには少し裏切られる感じがする。ホームズが最後の挨拶のあとでひょっこり顔を出すような。プレイヤッド版の編者によれば、

長いあいだ慣例的に、ランボーの編者たちは、『地獄の一季節』の前に『イリュミナシオン』を載せていた。彼らはパテルヌ・ベリションの言葉を素朴に認め、『地獄の一季節』はランボーによる文学への訣別だと信じ込んできた。であるからには、『イリュミナシオン』は必然的にブリュッセル事件[注:ヴェルレーヌランボーを撃った事件。これが契機となって『地獄の一季節』は書かれた。]の前でなければならなかった。(アントワーヌ・アダン版プレイヤッド972頁)

ということなので、その裏切りの感覚は一般的に共有されたものだったろう。
が、今日の見解では『イリュミナシオン』が『地獄の一季節』の後に位置付けられるというのが大勢を占めている。
考え方を変えるべきなのだ。「訣別」は『地獄の一季節』に固有のテーマではない。
むしろ、彼の詩のすべてが訣別であって、新たな出発である。訣別に継ぐ訣別。そこに「余韻」のための時間などありはしない。

では読者としては、その輝き、その閃光をどう視認すればよいのだろうか。
私たちがかろうじて捉えることができるのは、動体そのものではなくて、あくまでその軌跡、轍にしか過ぎないのだろうか。
イリュミナシオン』には、「」を扱った詩が二つ存在する。
一つは、「轍Ornière」というそのままのタイトル。夢幻の世界、サーカスの山車が奇抜な色彩でもって展開したのちに、突如として「黒い天蓋に覆われた棺」、「漆黒の羽根飾り」、「青や黒の大きな牝馬」が登場して、ファンタスマゴリアの世界が死に中断されるという謎めいた構造をしている。
もう一つは「海の光景Marine」という詩で、地を走る車と海を走る船とが意図的に混同されていて面白い。

荒地の潮流と、
引き潮の巨大な轍
Les courants de la lande,
Et les ornières immenses du reflux

という節がとても良いと思う。ふつう荒地に潮流はない。引き潮は轍を残さない。
だがそれらが敢えて逆転させられたとき、無理やりねじ伏せられるように、そこには荒地の潮流と引き潮の巨大な轍が現出する。
ところがこれら潮流と轍が向かう先もまた、光の渦巻きに衝突して、その痕を残さず溶けいってしまう。
いつだってこんな感じだ。「夜明けAube」の語り手が夏の夜明けを抱きしめた途端に目を醒ましてしまうように。

二つくらい疑問が浮かぶ。
一つ。何に駆りたてられて、彼はこれほどにも訣別を繰り返しつづけたのだろうか?
そのヒントとして(そういえばこれは本の紹介のコーナーだったので)ここで一冊の書籍を紹介させていただく。
ランボー 自画像の詩学』は前期韻文詩から『イリュミナシオン』に至るまで、つまりランボーの詩的キャリアの全体を自画像というテーマから読み解いている。

詩人ランボーの基本には、自分を他に見立てる想像力があります。彼の詩はしばしば、別様に見た自分を起点に動きはじめます。これを、架空の自画像を描く運動として捉える発想が、本セミナーの動機をなしています。この自画像はたんなる詩的イメージの次元にはとどまりません。それは詩人の実存と交差してそれを牽引する力をはらみます。ランボーが詩に賭けていたものは、言葉によるアクションでありパフォーマンスです。(17頁)

それはただ「かつてこうであった自分」を描くだけでなく、「こうでありえた自分」の虚構的創出でもある。静物動物を問わず、人称の違いを問わず、多くの詩にランボーの自己投影を認めることができる。

自己表象には違いありませんが、自分との同一性または類似性を求める表象ではないのです。それどころか、現実の自分ではない存在または事物への自己投影です。現実の自分との相違や隔たりにこそ意味があるのです。そして過去の復元よりも、現在時の定着よりも、未来の彫塑が賭けられています。いきおい、動詞の時制も過去形が優位とは限りません。(18頁)

この本には実に教えられることが多かった、というか、想像力欠乏症の自分にはこの本がなければランボーの世界のトバグチにさえ立つことができなかっただろう。

岩波セミナーを元にしているので一般向けに語り下ろされており、ですます調で読みやすい。
とりわけ私たちの関心である『イリュミナシオン』を扱った第五章「火を盗む者の変容」について言えば、一見してわかりにくい語句の散りばめられた「子供のころEnfance」が迷い子や孤児の「情動に染められた」(218頁)世界であることを教えられたことで、かなり近づきやすく親しみを感じられるようになった*1
出版を意図して整序されたものではない『イリュミナシオン』において、慣例的に一番最後の詩として位置付けられている「精霊Génie」についても、その詩におけるキリスト教の転倒戦略が明確に解説されていることに喜びを覚えるが、さらに中地氏は

「精霊」は、断言の力強さと格調からすれば、約五十篇からなるこの未完詩集のなかでも頂点を画する詩ですが、このような[詩的次元と自己のポエジーを相対化する批評的次元の]二元性の観点からすると、ランボーの究極のメッセージ(そのようなものがあるとして)とは言えません。内容からしても、またおそらくは執筆時期からしても、そうなのです。(270頁)

と述べている。つまり、「精霊」はポエティックで未来を一心に指し示しているという意味では詩集の掉尾を飾るに相応しいものの、その詩的栄光が瞬時のものにすぎないということへの諦念に満ちた距離化は存在していない、というわけだ。そして彼は「歴史的な夕暮れSoir Historique」と「野蛮人Barbare」を挙げ、必ずしも目につくわけではない詩における(反)-詩的な側面を強調する。
このセミナーを通じてもやはり、「余韻」を許さぬ自己批評の動きが活性化されている。
それゆえ、なにゆえランボーはかく追い立てられるように訣別を告げていたのかという問いに、ここでヒントを与えることができるはずだ。
それは、絶えざる自己との向き合いであり、自画像を見つめることで「自己自身を認識すること、それも完全に認識すること」を果そうとしたから、ではないだろうか。
この認識は決して到達点ではない。あくまで到達すべきなのは、その自己認識を通じて自己のなかにある未知に到達すること、自己のうちにあるいくつもの生を生き抜くこと、そして、「わたしとは他者である」というランボーのあまりに有名な定式を世に広めること、これである。

しかし実を言えば、彼のあの訣別、あの焦燥を、自画像(自己の認識)というモデルだけで理解することはできない。と思う。
読書会では、その辺について考えを深めることができればよいと思う。
まあいずれにせよ、『自画像の詩学』はたいへん素晴らしい本なので、ぜひ。

それから忘れかけてたけど、疑問の二つ目。どうしてランボーはこんなに孤独なのかなあ。

*1:カルメン・マキの歌う「時には母のない子のように」を思い出すところがある。