お金とはどんなものかしら(2)―『貨幣とは何だろうか』

貨幣とは何だろうか (ちくま新書)
今村 仁司
筑摩書房
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まず、かなり長い引用をしたい(別に読む必要はない)。

貨幣と言語の関係はしばしば論じられてきた。この種の議論は、貨幣の本質に照明をあてるかのようにいわれてきたが、本当にそうなのだろうか。本論への糸口として、簡単に、この種の語り口を批判的に検討しておきたい。
二つの現象の比較が可能になるのは、言語の価値と交換の価値が類似しているといわれ、言語価値の尺度としての意味(指示対象)と交換価値の尺度としての貨幣が、関係の総体のなかで機能的に類似していると考えられたからである。
言語と貨幣の関係づけが可能なのは、二つの領域の一定の局面を切りとり、そのなかでの価値尺度を論じるかぎりにおいてである。そして、比較はそれ以上にはすすまない。言語価値論と交換価値論を比較することで、貨幣の本質への理解が深まるとはとうてい思われない。
事実、貨幣と言語の比較を主題的に論じたのは、言語学系の論者であり、その場合には、貨幣あるいは価値尺度は単なる比喩としてもちだされたにすぎない。貨幣は言語論にとっていわば刺身のつまにすぎなかった。もっとあからさまにいえば、ソシュールが『一般言語学講義』のなかで貨幣と言語を比較したから、彼の権威とともに、このいわば不毛な比較論が全世界的に流行したというにすぎない。
私は、貨幣と言語の比較はみのりのない議論だと思う。両者を比較しても、せいぜいのところ、「価値」とか「尺度」という用語のみが共通するだけで、どちらにとっても、それらの本質の理解には役立たない。この比較論のなかには、貨幣についての通俗的な理解が自明のごとく前提にされているのであり、そうした思いこみは、認識の深まりをむしろ阻害する要因である。
したがって、言語との関係を見捨てて、文字との関係を貨幣論の視野のなかに引きこまなくてはならない。言語論と絡みながら消極的に顔をだす文字の問題こそ、貨幣を考えるときに導きの糸にするべきであろう。文字は、言語世界における貨幣的存在である。(166-167頁)

この一節をもって、今村の資料調査不足を指摘することはできる。本書『貨幣とは何だろうか』は1994年に出版されたちくま新書の第一号であるが、以前のエントリ「お金とはどんなものかしらー『言語の金使い』」で紹介したグーの著作は翻訳こそ1998年だが原書は1984年である。氏と同じくジッドの『贋金づかい』を論じているのみならず主題の面からも必読文献であり、もし読んでいれば貨幣と言語の比較を上記引用のように「単なる比喩」とは切り捨てられなかったはずだ。というのも、今村がそれを「みのりのない議論」と見なすとき、彼はその比較を単なる機能的なものであって使用者の主体との影響関係にまで踏み込めていないと断じているのだが、グーの分析はその機能的比較をさらに敷衍して「一般等価性」の専制的支配にまで論をすすめているからだ。それゆえ「価値尺度の類似」だけに留まるものではない。その射程は彼の議論とも通じ合うところがあり、十分「みのりのある議論」である。

貨幣の社会哲学

しかしながら、グーの議論を参照しない代わりに氏の議論は異なる趣向をみせてくれる。そしてそれは(後に触れるように)グーの著作に感じる不満を補完してくれるものだ。
今村が提案するのは、素材としての貨幣を扱う経済学的方法論ではなく、形式としての貨幣を扱う貨幣の社会哲学である。

貨幣の社会哲学は、貨幣の経済的機能を論じるのではなくて、人間にとっての貨幣の意味を考える。それは、貨幣を人間存在の根本条件から考察する。人間の根本条件とは死の観念である。こうして貨幣と死の関係が問題になる。(15頁)

この議論の素早さにはちょっとついていきがたいところがある。このはじめの数行で語られているのは、「1.貨幣の社会哲学は人間存在の根本条件から貨幣を考察する。2.人間の根本条件とは死の観念である。3.よって貨幣と死がかかわりをもつ」このような三段論法だが、いささか恣意的との印象を受けるかもしれない*1

いったい何故貨幣は「死の観念」とかかわりをもつのか? マルセル・モースの贈与論などを引きながら彼は、貨幣とは「物やその機能である前に、関係の結晶化」(33頁)であり、何故とりわけ人間関係には貨幣という媒介が必要なのかを問おうとする。
それは、原初的な死を遠ざけ、かつ留めておくためなのではないか? 人間関係は、貨幣という媒介によらず無媒介になされようとすれば、死を露わにするのではないか?
これが今村の仮説である。この着想源となったゲオルグジンメルの『貨幣の哲学』は興味深いものであるから、次にチェックしてみよう。

ジンメル『貨幣の哲学』

ジンメルと言えば「つながりの哲学」という副題のついた紹介書が出版されるくらいには関係性を重視した哲学者・社会学者なのだが、貨幣を論じるときに最重視されるのも、やはりこの「つながり」である。
今村はそれを「距離化」の概念として抽出している。

ここでいう距離化(Distanzierung)とは、「遠ざけ」と「離れを防ぐ」という相反する作用を同時に意味している。人間の関係づけは、距離をつくりだし、同時にその距離を特定の幅の中に収集することなのである。(48頁)

つまり、ひととひと(物)とがゼロ距離でくっついていることが不可能であるとき、適度にその関係を遠ざけつつ、決して離れていかないようにするもの、それが媒介としての貨幣である。媒介物があるかぎり、ひとは決して他人と合一化することはできないが、他方でその関係性から逃れることができなくなる。
では、媒介なき関係については、どのような状態を想定できるだろうか?

仮説的ではあるが、人と物との未分離の状態を設定してみると、それは生死の境のない状態である。距離化は、この状態に楔を入れることで、その結果として死の表象を生むだろう。原初状態を想定してみると、人と物との分離は、生と死の分離でもある。人間は距離化によって、死の観念を内部に抱え込まざるをえないだけでなく、この観念を制度として客観化する。それが、一方では、共同体の墓であり、他方では葬送儀礼である。

やや観念的な議論ではある*2が、ここで言われんとしているのは、媒介なき原初的状態には生と死の不可分な状態が存在しており、その根源性への畏怖から、ひとは媒介による距離化を選んだのである、ということだ。
それは貨幣にかぎったものではなく、芸術や法といったもの、人間が作り出す文化のおよそすべてが、かかる媒介による距離化を実現している。「それは、こういってよければ、媒介形式決定論であり、その形式の最大のものが貨幣形式だというにつきる。」(60頁)
それゆえ、マルクスの提唱するような「貨幣なき社会=共同体」(72頁)は、いわば原初的なカオスを再現出させようとする危険な試みである。
人間にとって貨幣とは不可避なものであり、そのかぎりでひとは、「貨幣的存在」(68頁)である。
これが、ジンメルの貨幣哲学から今村の受け取ったものだ。

西洋形而上学批判

以上が二章までの議論である。あまり長く書きたくないので、残りについては瞥見するに留めよう。
三章、四章では「貨幣小説」という珍奇な概念を提出している。これはわかりにくい造語である。

貨幣小説とは、厳密にいえば、貨幣形式の小説である。貨幣形式が媒介者であるのだとすれば、貨幣小説とは、人間関係を媒介し、関係の安定と秩序あるいは道徳と掟の世界をつくりだす媒介形式を主題とする。(80頁)

それで彼はゲーテの『親和力』とジッドの『贋金づくり』を取り上げているのだが、これははっきり言って造語の響きほど面白い議論ではない。
人間関係に媒介形式が不可欠であって、それが消滅したときには悲劇が起こる……これを論証するための章であるから、もはや貨幣すらも十分な意義を失ってしまう(貨幣にまつわる話は出てこない『親和力』でさえ貨幣小説なのだから)。
また五章では「貨幣と文字」の類縁性を論じているが、主な作業はルソーの透明概念批判である。スタロヴァンスキーやデリダが指摘したように、ルソーには言葉を介さない=媒介を要しない透明な関係への志向が存在する。西洋思想はかかる形而上学媒介による疎外のない本来性*3)への志向に支えられており、それがしばしば提唱される貨幣廃棄論として噴出しているのだと今村は言う。

だからこそ、経済学批判は同時に形而上学批判でもあるのだ。したがって、貨幣形式の社会哲学は、伝統的な存在論への批判であり、貨幣を論じることは、まさに人間の世界関係あるいは人間の社会存在の根源への思索なのである。(198頁)

ここはかなり面白いところだ。伝統的な存在論が貨幣的存在性を批判したとしても、私たちにとって貨幣は経済を動かしていくだけではなく、人間関係を構築するうえでも、生死不可分のカオスを避けるうえでも不可欠なものなのだから、貨幣的な人間関係を単純に否定して済ませられるものではない。
そしてこの点こそジャン=ジョゼフ・グーの議論を相対化するうえで有効な個所だと私は思う。グーはハイデガー的な伝統的存在論を引きずっているので、詩的経験による原初的な存在様式への憧れのようなものが存在する。しかしこれは私たちにとって満足のゆく議論ではない。
むしろ、貨幣が自明のリアルであることを踏まえたうえで、そこからどこへ行けるのか。これについての議論を深める必要があるはずだ。

課題

しかし、新書という枠組みのせいか、今村の議論は「貨幣は不可避である」という議論から先に進まない。貨幣の問題性を認識してはいるものの、「やはり貨幣は不可避だから……」というに留まってしまう。
このような決死の擁護には理由がある。今村はマルクス主義系の論客だが、ここでは共産主義ユートピア的な貨幣なき共同体のモデルを批判してもいる。それは、ソビエトの破滅やカンボジアの悲惨が、貨幣を廃棄した社会を作ろうと試みたことに由来するのではないか、という反省が存在するからだ。
人間は天使ではない。だから透明な存在ではありえない。予め汚れた存在として、貨幣を用いた関係を営まずにはいられない。
これはマルクス主義系の論客としては、まさしく「決死」と評すべき見解ではないか。ユートピア的社会を建設するために、そこには多くの血が流れたのだから。

しかし、何故貨幣廃止論者にとって貨幣は危険な存在なのか。この点について今村は十分考慮を払わず、「彼らは貨幣を素材としてしか認識せず、不可避な形式という側面を見過ごしたのだ」と断じてしまっている。「素材貨幣はなくしたり代替できるが、形式としての貨幣は廃棄不可能である。」(233頁)
そうではない。彼が批判する論者の多くにとっても、貨幣の媒介的側面は十分に認識されていたはずだ。
むしろ、だからこそ批判されたのではないか。以下に理由を記す。

今村は文字と貨幣を相同的なものとして理解している。西洋形而上学において文字言語は音声言語に劣るもの、パロールの死だと理解されていたのだが、同様に貨幣は人間の原初的関係からの頽落として理解されているからだ。ところが、人間には文字言語が不可避であるように、貨幣も不可避なものである。なるほどそれは議論のフォーマットには則っている。
しかし文字と貨幣には根本的な相違がある。それは、文字が一度習得されてしまえば失われることがないのに対して、貨幣は労働によって獲得されなければならないからだ。
貨幣は流通する。そしてそれを自分の手元に寄せるためには、自己を資本化しなければならない。
この観点はグーにも不在だったように思われるが、今村において特に顕著だ。
媒介としての貨幣は、常に私たちの手元にあって自由に使えるものではない。そのために不可欠な労苦が必要になる。
これを人間関係という点から考えてみれば、私たちが他人と繋がるということは今村が考えるほど容易なものではない
むしろ、貨幣がなければ他人と交わり得ないからこそ、貨幣の多寡によってコミュニケーションに格差が生じてしまうという事態、これこそが貨幣のもたらす危険である。
ごく卑近な考え方をしても、情報にアクセスして、多くの繋がりを得るためには、十分なお金が必要である。金がなければ人付き合いさえもできない。
確かに今村の述べるように、貨幣には死の観念が封印されていて、それを廃棄すれば悲惨が生ずるのかもしれない。しかし、その貨幣があたかも私たちの自由に用い得る媒介であると考えている点で、今村もやはり形而上学である。
貨幣は媒介の用具であるとして、何故それが私たちの媒介を阻害するようなことになってしまうのか。
関係性の貨幣なき透明性を批判することは妥当だとしても、そこから、如何にして関係性の平等を実現していくか、少なくとも貨幣の多寡に左右されない関係を実現していくか。

これをこそ今村は考えるべきであったし、今村仁司が死んでしまったいまとなっては、私たちが考えるべき課題なのだろう。

*1:じっさい今村も論証性に自信がなかったのか、「そこでとりあえずは、論証ぬきで「貨幣は人間存在の根本条件である死の観念から発声する」という命題を前提にしてすすめる。」(35頁)と言い放って第一章を終えている。

*2:アポロン的個体化の原理が破れたときに露わになるデュオニソス的状態(ニーチェ)や、主客を超越した原初の自然に対する驚きの叫び(アドルノ/ホルクハイマー)を想起してもよいかもしれない。「その場合、未開人が超自然的なものとして経験するのは、物質的実体に対立する精神的実体ではなく、個々の分枝に分れることなく渾然と一体をなしている自然的なものの状態である。」(アドルノ/ホルクハイマー『啓蒙の弁証法岩波文庫、41-42頁)

*3:とはいえ、このあいだ國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を読んでいたらルソーは「本来性なき疎外」だと書いてあったから、あまりナイーヴにこういうことを書きたくはないのだが。