お金とはどんなものかしら―『言語の金使い 文学と経済学におけるリアリズムの解体』

まずは歴史の勉強。

たとえば塩野七生が『ローマ人の物語』文庫版で、毎巻ごとの表紙に統治者のレリーフを刻印した貨幣を飾っていたように、貨幣の存在は古くから統治行為の中枢にあった。その貨幣の届くかぎりがローマの統治の及ぶところであり、その硬貨の質の良さ、純度の高さがその治世の栄華を物語るものだった。

この時代の貨幣は金銀複本位制を採用していたとされるが、所謂代用貨幣としての紙幣が存在しないために、流通に十分なだけの金銀が用意できない場合には、粗製の悪貨が横行することになる。全ヨーロッパ的な本位貨幣制度の成立には近代を待たねばならない*1

金本位制の正式な始まりは1816年、イギリスでのこと。もちろん金貨を直接に流通させることは物質的に困難であり、ここに流通用の紙幣が登場することになる。この紙幣は金貨と交換することが可能なので、兌換紙幣と呼ばれる。

その後の歴史は、
19世紀後半 金本位制の国際的確立
第一次世界大戦後 金本位制の一時停止
管理通貨制度による不換紙幣への移行の流れができる
1971年にはアメリカもそれに倣い金本位制が完全に終焉する*2

戦争の荒廃は金の流出を招き、本位貨幣制度の困難を露呈する。対するに管理通貨制度では政府が金銀の準備量によらず通貨の発行量を調節することができるため、柔軟な対応が可能になる。金という実体的なものが存在しない分、その流通を保証するのは政府への信用である。それゆえ不換紙幣は信用紙幣とも言われる。

金の直接的な流通から、金本位制度、それからさらに管理通貨制度へ。実物から信用への経済史的な移行は、私たちの存在、思考それ自体に、何らかの影響を及ぼしはしないか?

ジャン=ジョゼフ・グー著、土田知則訳『言語の金使い』新曜社、1998年

言語の金使い―文学と経済学におけるリアリズムの解体
ジャン=ジョゼフ グー
新曜社
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ヨーロッパにおいて、小説や絵画におけるリアリズムの危機が金貨幣の終焉と時期を同じくするのは単なる偶然であろうか。また、「抽象」化した芸術の誕生が、不換的な貨幣記号という、今や遍くいきわたっているスキャンダラスな発案物と同時代に属するのは偶然なのだろうか。そこには、貨幣および言語にとっての保証となり指示物ともなるものの瓦解現象、すなわち、表象作用を突き崩し、シニフィアンの漂流時代を作動させるような記号と物との断絶が見られないであろうか?(7頁)

グーはまさしくそのこと――金本位制の終焉とリアリズムという思考様式の危機――を思考している。そこで彼が範例として取り上げているのがアンドレ・ジッドの『贋金づかいLes Faux-Monnayeurs』である。1925年に発表された本作は、しかし時代設定を戦争以前に置くことで、依然金本位制が効力を発揮しつつ、その体制が揺らぎ始めた時代を捉えている。

貨幣の形式と言語の形式は確かに似ている。著者はその相同性を、次の三点から指摘している。

交換形態の発展を通じて貨幣となった貴金属は、以後まったく異なる三つの機能を果たすと考えることができるだろう。(1)交換尺度としての機能、(2)交換手段としての機能、そして(3)支払いもしくは、蓄財手段としての機能、この三つである。われわれにとって、こうした区別は決定的な重要性を有すると思えるのだが、交換の論理が帯びるあらゆる含意を把握し、非-経済的な一般等価物の形態――たとえば、言語や父性――とのパラレルな関係を明らかにする目的で、それが有効に利用されたことは決してなかった。この区別こそ原型代用貨幣財宝の差異を基礎づけるものであるが、その意味作用は、経済的交換の場をはるかに踏み越えているものと言える。(58頁.強調は原著者)

貨幣の一般的等価物としての側面が経済現象以外で人間存在に影響を与えること、これはマルクス以来の論者に指摘されてきたことであり*3、また言語と貨幣の相同性もソシュールらに認識されたきたものであろう。しかし貨幣の三つの次元(これ自体は経済学の定説)を言語の三機能および精神分析の三領域と結び付け――つまり、シニフィアン=代用貨幣=象徴界シニフィエ=原型=想像界、レフェラン=財宝=現実界というように――、それを原理的に考察したのは本書の画期的性格と言わねばならない。

そして構造的に相同的なものは、同じ時代に同じような変容を迎える*4金本位制の崩壊によって、私たちが用いる紙幣は地金(レフェラン=現実)の保証を受け得なくなり、また、それを用いることで交換尺度(シニフィエ、想像)が機能しているという印象も受けられなくなってしまう。政府のみが尺度となり保証者となる管理通貨制度においては、貨幣の象徴的な部分、代用貨幣のみが流通することになる。

裏付け保証や兌換性をすべて失う傾向にある代用貨幣の流通、原型という理念的な境域や財宝という現実的な境域に対する、ほとんど独占的とも言える象徴的な境域の支配(64頁)

リアリズムにおいてもこの「象徴的な境域の支配*5」が危機を生じさせることになる。すなわち、リアリズムが十全に機能しているときには、文字はあくまで表現のための手段にすぎず、小説を読むことでじゅうぶん現実が描かれていることを確信できたし、指示対象としての現実も揺るぎないものであった*6。ところが徐々に文学と現実との結びつきは自明なものではなくなる。まるで貨幣が金との結びつきを失っていくように。

そのことを明確なアナロジーで示したのがジッドの『贋金づかい』である。小説には数多くの「贋物」が登場する。ベルナールは自分の父親が本当の父ではないことを発見する。オリヴィエの父は権威の欠片もない浮気男である。アルマンの父は神父でありながら信仰の持ち主には思われない。これまで確固たるものとして秩序を維持してきた現実的なものの権威の揺らぎが小説には散りばめられている。いっぽうエドゥアールという作家(ジッドの似姿)は、『贋金づかい』という小説を構想しながら、もはや現実(外面も内面も)を描きとるような文章を書けないことを自覚している。

Jusqu'à présent, comme il sied, mes goûts, mes sentiments, mes expériences personnels alimentaient tous mes écrits ; dans mes phrases les mieux construites, encore sentais-je battre mon cœur. Désormais, entre ce que je pense et ce que je sens, le lien est rompu. (Les Faux-Monnayeurs, p.95)
今日まで、思いのままに、私の趣味、感情、個人的経験は私の書き物すべてを養ってきた。最も美しく構成された文章においてすら、やはり私の心を打ったものだ。これからは、私の考えることと感じることのあいだには、つながりが絶たれている。(エドゥアールの日記)

« Est-ce parce que, de tous les genres littéraires, discourait Edouard, le roman reste le plus libre, le plus lawless..., est-ce peut-être pour cela, par peur de cette liberté même (car les artistes qui soupirent le plus après la liberté, sont les plus affolés souvent, dès qu'ils l'obtiennent) que le roman, toujours, s'est si craintivement cramponné à la réalité ? » (p.183)
エドゥアールは論じたてた。「それだから、あらゆる文芸ジャンルのなかで、最も自由にして無法な小説が……ひょっとするとそのために、その自由それ自体へのおそれのために(というのも何より自由を渇望する芸術家たちこそ、それを手に入れてしまえば、しばしば逆上するものだから)、小説は今も昔も、現実というものにびくびくしながらしがみついているのではありませんか?

リアリズムの危機、もっと言えば、小説の危機に敏感であったジッドは、それでもリアリズムの方法を捨てることなく、作家がリアリズムの危機に瀕しながら「純粋小説」を目指してゆくという、メタフィクションの技法を用いることで、表象の危機それ自体を表象の対象としている。

そこでジッドが表象の危機を贋金(貨幣の通用を不確かなものに変えてしまう)のメタファーで自覚的に捉えているかぎり、グーの分析を読まずとも、『贋金づかい』の読者たちはこの相同性に気付くことができる。だからグーの分析は派手な手法を用いてはいるものの、小説の読解という意味では、メタファーを直喩的に語り直しているだけ、という印象も与える。それゆえ、『贋金づかい』の布置が明確にはなるものの、刺激的な発見をさせるというわけではない。

ジッドのこの小説は、経済主体論だけが、現代社会の生み出しうる唯一の世界観となってしまうような瞬間を指し示している(もしくは、予示している)のである。(38-39頁)

とはいえやはり面白いのは、アンドレ・ジッドの小説を、その叔父で経済学者のシャルル・ジッドの分析と重ね合わせながら読むところだ。シャルル・ジッドというのは著名な経済学者らしく、日本語でも『経済学入門』という著書が訳されているようだが、彼は貨幣を四つに分けて分析している。

それ自体に十全な真正価値を備えた金貨幣(もしくは銀貨幣)、兌換性を保証された表象的な紙幣、保証の定かでない信託紙幣、そして、兌換不可能で強制流通制度のもとでしか流通しない取決め的な紙幣――しばしば「名目=虚構的な貨幣」と呼ばれる――、この四つである。(32頁)

この金貨幣から金本位制、管理通貨制度への移行を捉えた著作をアンドレ・ジッドが読んだことがある、あるいはその内容について叔父と語り交わしたことがある、というのは十分にあり得ることだ。それが事実かどうかはともかく、この辺りの符合は興味深い。

グーの著作の微妙さ――理論的には派手だが小説の読解としては例証的すぎる――は、実のところ、ジッドの小説それ自体の微妙さに由来している。彼の『贋金づくり』におけるメタフィクション構造は、表象の限界にぶつかった古典主義的作家アンドレ・ジッドの足掻きの挙句に現れたものである。様々な展開が派生的に描かれてはいるが、そのせいで本筋というべきものは失われ、散逸化しており、小説として成功しているかというと、あまりそういうものではない。グーもその点を批判してもいる。

この小説は、(原型を志向させることで)言語における理念性の次元を確保しようと努めながらも、そうした理念性の次元を、純粋なる思惟的構築の方へとこっそりずらし変えてしまっている。<理念>に適合した詩は、より散文めいたもの、すなわち、観念小説と化してしまうほかない。(114頁)

ジッドの小説もまた例証的なものであって、時代の状況をうまく切り取り、またそれを青春小説としても機能させてはいるものの、そこに介入しようとか、動かそうとする力を感じさせない。そのために、『贋金づくり』は「おしゃべり」と「黙考」の中間地点での戸惑いばかりを示す。

『言語の金使い』は二部構造からなり、第一部は『贋金づかい』を取り上げているのだが、第二部ではそこで得た知見をより広いコンテクストに置き直している。そこではゾラ、マラルメムージル、シャルル・ジッド、ソシュールゲーテヴァレリーが論じられるのだが、ここにこそ著者の言い分が隠れている。

それは端的に言えば、流通する貨幣と一般的等価物に対抗するものとしての、詩的プラトニズムプルースト的な無意志的、喚起的な想起をもたらすものへの賛美であり、想像界復権である。

具体化された一般等価物がもはや存在しなくなると、理念的あるいは想像的な機能が、交換を超えた超越性を取り戻す。一方、自律的になった交換主義的機能は、形式主義的論理や代用貨幣――浮動する交換=兌換不可能なシニフィアン――の操作に全面的に委ねられたままである。したがって、もはや理性による形式化――銀行コンピューターがそのもっとも顕著な政治的示現形態と言えるが――に対立しうるのは、疎外された交換によっては媒介されない、「絶対的」で「初源的」な意味作用の探求をおいてほかにない。(284頁.最後のもの以外は原著者強調)

つまりジッドよりもプルーストマラルメヴァレリーの方が著者の趣味には適しているのだが、ここで言う「「絶対的」で「初源的」な意味作用の探求」とはいささかナイーヴな結論だと言わざるを得ない。確かに、「詩は尺度として考えられねばならない」というハイデガーの言葉を引用するとき、グーの態度は現代思想的に模範的なアプローチではある。『芸術作品の根源』においてハイデガーは詩的なものの開示性、根源への開かれを論じている。これは現代の技術主義的配置に対するハイデガーなりの「救済」であり「解決策」であり、このような詩的なものの特異性は今日においても一部で共有される態度ではある。

しかし「詩的なもの」の機能不全、これこそが現代の掲げる問題ではないか? 確かに著者はこの詩的経験を「依然問題含みの経験」と呼び、その汲み上げをそれでも「余儀なくされている」(284頁)ということで、留保をつけている。それでも1984年に出版された本書が、当時の現代にまで通用するような感覚を汲みとっているとは思われない。もう少し別の観点を持つことも必要だろう。

*1:このあたりの記述はすべてWikipediaによるので、適当。

*2:アメリカだけ金本位制を維持し続けることができたのは、戦争による荒廃を受けず債権国としての力があったから?

*3:たとえばアドルノ/ホルクハイマーは『啓蒙の弁証法』で「市民社会等価交換原理によって支配されている。市民社会は、同分母に通分できないものを、抽象的量に還元することによって、比較可能なものにする。啓蒙にとっては、数へ、結局は一へと帰着しないものは仮象と見なされる。そういうものを、現代の実証主義は詩の領域に追放した。」(岩波文庫、30頁)と指摘する。あるいはジャン=リュック・ナンシーの『フクシマの後で』は現代社会を一般的等価性の原理から考察している。「マルクスは貨幣を「一般的等価物」と名づけた。われわれがここで語りたいのもこの等価性についてである。ただし、これをそれ自体として考察するためではなく、一般的等価性という体制が、いまや潜在的に、貨幣や金融の領域をはるかに超えて、しかしこの領域のおかげで、またその領域をめざして、人間たちの存在領域、さらには存在するものすべての領域の全体を吸収しているということを考察するためである。」(以文社、25頁)

*4:これは勿論俗流マルクス論的な下部構造決定論ではなく、様々な文化形式が構造的に相互作用しているということ。

*5:所謂「シニフィアンの過剰」である。

*6:いささかナイーヴな図式化ではある。グーはリアリズムの代表例としてバルザックやゾラを念頭に置いているので、前回のエントリ「読書会。『いま、なぜゾラか』」でこの辺の引用を一つしておいた。