アドルノ/ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』と『オデュッセイア』

「オデュッセイア的転回」の後半で、ごくあっさりと『啓蒙の弁証法』に触れた。

アドルノ/ホルクハイマーはまた『啓蒙の弁証法』でセイレン譚を取り上げ、オデュッセウスを「自己保存的理性」(岩波文庫、132頁)と呼んでいる。

せっかくだから触れておいた方がよかろうという浅い発想に基づいての引用だったが、あとで同書を読み返してその軽率に気が付いた。かなりミスリーディングだったと思う。そのままにしてもよいのだけれど、「アドルノ セイレン」でググるとこのエントリが一ページ目に表示されるようなので、補足しておきたい。

啓蒙と神話


啓蒙の弁証法』は通読の難しい書物だと思う。最も有名な論文「啓蒙の概念」の大要は、序文で著者たちの挙げるように「1.すでに神話が啓蒙である2.啓蒙は神話に退化する」(15頁)というテーゼに集約されているが、それに補論1「オデュッセウスあるいは神話と啓蒙」補論2「ジュリエットあるいは啓蒙と道徳」という本論とほぼ同文量の二論文がセットになっている*1。そこに大衆文化批判「文化産業論」と啓蒙の限界を集約するものとしての反ユダヤ主義についての論「反ユダヤ主義の諸要素」が続く。さらに「手記と草案」という断片的思索まで本文に組み込まれており、「哲学的断想」という副題の示すとおりの反体系的な書物である*2

といって文章自体は緻密に書かれているが、あまりに濃縮されたものなので思考に追いつくことも難しい。また、ナチの台頭と「西洋理性の危機」に応えるべく39-44年に書かれた本書は、当時の時代状況を反映して随所で批判を加えており、一種社会学的な側面もあるのだが、たとえば、

ついに自己保存が自動化されるに及んで、生産の管理者として理性の遺産を相続したものの、相続権を剥奪された者[理性]を憚って、今や理性に恐れを抱くようになった者たちの手によって、理性は解任される仕儀に立ち至る。啓蒙の本質は二者択一であり、択一の不可避性は支配の不可避性である。(70-71頁)

という有名な一節にしたところで、「「ついに」っていうけどじゃあ具体的に何年何月何日何曜日地球が何回回った日のことなんですか?」と聞いても仕方がない。純粋な哲学的思弁によって西洋史は紐解かれ、黙示録的な語調でもって歴史の終焉が託宣されている。危険なまでの説得力だ。

ところで、本書の読者は、もうナイーヴに近代的理性の語を用いることができない。理由は二つある。一つ目、理性には予め権力の概念が組み込まれており、その担い手たる自立した「個人」という概念も外なる自然と内なる自然への支配・抑圧を経て成立するものであるから。二つ目は、それはそもそも「近代」の問題ではないから。

じっさい、理性・自由・市民性の系譜は、市民の概念の由来を中世封建制度の終焉以降におく歴史観が想定するよりも、比較にならないほど遥か昔にまで遡ることができる。(106頁)

オデュッセイア』論がとりわけ重要になるのは、それが理性・自由・市民性という概念の近代に留まらない根源性を明らかにするからだ。私たちはしばしばナイーヴにホメロス叙事詩の登場人物たちを近代ならざる精神の持ち主、つまり非-啓蒙的な神話の世界を生きる者と捉えているが、アドルノ/ホルクハイマー*3が「すでに神話は啓蒙である」というとき、啓蒙思想家としてのホメロス像が露わになる。

アドルノ/ホルクハイマーの『オデュッセイア』論でとりわけ有名なのはセイレン譚の解釈だが、これは本論「啓蒙の概念」でさらりと触れられているだけで、補論ではあまり重視されていない。おそらくみんな補論は飛ばして読むので、このセイレン譚だけが独り歩きしてゆく。私もつい「『啓蒙の弁証法』でセイレン譚を取り上げ、オデュッセウスを「自己保存的理性」(岩波文庫、132頁)と呼んでいる」などと書いたが、実は「自己保存的理性」の引用は補論からやってしまっている。これがミスリーディングたる所以である。

戦後の思想はナチズムという軛から未だに解放されていない。多くの思索が、ナチズムを西洋史上の偶発的な事故としてではなく、その最終的帰結として捉えているし、それは正しい。国家社会主義ドイツ労働者党の統治は野蛮や非合理性の名のもとで断じられるべきではない。そのような断罪は、理性を優遇して保存しようとする態度に他ならないからだ。むしろ、きわめて合理的に推進されたその統治が、何故同時に野蛮の極みたる反ユダヤ主義を選択したのか。それは非合理性や野蛮で片づけられるよりも理性の合理性追求の末路ではないか。それは理性、あるいはそれを絶対化してきた啓蒙の概念それ自体に組み込まれたプログラムなのではないか。本書はそのような視座で書かれた書物であり、今日への影響は測り知れないものがある。

近代的理性オデュッセウス

私たちの多くにとってホメロスとは神話=叙事詩の語り手である。とりわけルカーチの歴史哲学において神話=叙事詩と小説の区別は絶対であり、小説の時代とは近代であった(「『イリアス』における運命論的思考」参照)。ところがアドルノは、まさにルカーチへの批判を意識しながら次のように書く。

叙事詩と神話とは同一視されがちであるが、この見地はもともと近代古典文献学によって破棄されたものであり、その誤りは哲学的批判によってあます所なく明らかにされている。叙事詩と神話はそれぞれ別箇の概念なのである。[...]歴史哲学的には小説[ロマーン]と敵対関係にある叙事詩においても、結局、小説に似た様相が出現して、意味豊かなホメーロスの世界の荘厳なるコスモスを秩序づける理性の成果であることが開示される。秩序付ける理性は、コスモスを合理的秩序をもつものとして描き出すが、まさしくそれによって、神話は解体されてしまう。(103-104頁)

ホメロスという精神、偉大な編集者としての精神が、神話に秩序を与えて叙事詩を歌い上げるとき、そこには既に神話の解体が生じている。ホメロスとは理性の別の力[ムーサ]を借りて歌う神話的な何者かではなく、既に理性を持ち、小説の如くに語る者なのである、とアドルノは論じる。ここは繊細な理解が必要な個所である。アドルノ叙事詩を見境なく小説と見做す議論を批判する。それは「神話」を保存することになる。そうではなく、叙事詩と神話とは別物でありながら、互いに「支配と搾取」(107頁)を共有しているのである。つまり私たちが神話のリソースとして接するものには、常に既に啓蒙の要素が現れている。

神話の原型はすでに欺瞞の契機を含んでおり、この契機はファシズムの唱えるまやかしの中で勝ち誇っているが、しかもファシズムはその責めを啓蒙に負わせてしまう。ところが、ヨーロッパ文明の基本テキストたるホメーロスの作品くらい、啓蒙と神話との錯綜した関係をより雄弁に証言しているものはない。ホメーロスでは叙事詩と神話とが、形式と素材とが、相互に区別されるというだけではなく、両者はむしろ互いに対決し合っている。(107頁)

私も前回のエントリでルカーチ叙事詩/小説の絶対化への疑問として『オデュッセイア』を「小説へのはるかに大きな一歩」だと述べ、『イリアス』から『オデュッセイア』への移行を「オデュッセイア的転回」と定義した。しかし、はるかにラディカルなアドルノ/ホルクハイマーにとって、このような転回は存在しない。確かに彼らも小説的構造の典型として『オデュッセイア』を論じているが、『イリアス』もまたホメロスの理性的精神で書かれたものであるからには、小説的な要素を備えていると考えられるからである。前回のエントリでアドルノを引いたのは、ある意味で私の立論を破壊しかねないものであり、ここでもミスリーディングだったと言える。とはいえ、アドルノ/ホルクハイマーにとっても『オデュッセイア』がより範例的であることは同じである。

この点[叙事詩の脱神話化]は、『オデュッセイア』において、この叙事詩が冒険小説の形により近づいているだけに、一層鮮やかに認められる。多端な運命と対決しつつ、自我が唯ひとり生き抜いてゆく姿には、神話と対決する啓蒙の姿が浮彫りにされている。(108頁)

オデュッセウスの駆使する神々と渡り合う機智は外なる自然の支配を、誘惑に打ち克つ忍耐は内なる自然の支配を意味する。しかしこの詭計に含まれている詐術のうちに、自らが落ちてゆく危険に彼は気付かない。ひとが「自己」の同一性を確保するのは、神話を材料としてでなければならず、「神話から自分自身を借りて来なければ」(110頁)ならない。それでは啓蒙がいつ神話に退化するのか予測することができないのである。またその自己支配が自らの生の欲望の否定によって成し遂げられるものであるかぎり、彼はその自己の抹殺を条件として自己を成立させる。

人間の自己の根拠をなしている、人間の自分自身に対する支配は、可能性としてはつねに、人間の自己支配がそのもののために行われる当の主体の抹殺である。なぜなら、支配され、抑圧され、いわゆる自己保存によって解体される実体は、もっぱら自己保存の遂行をその本質的機能としている生命体、つまり、保存さるべき当のものに他ならないからである。(119頁)

それゆえ、「文明の歴史は犠牲の内面化の歴史である。」(119頁)しかしながらその犠牲が捧げられるべき自己は存在しない。もはや文明は非人間化された数的合理性のもと、理性すら用済みのものとして管理の対象となりおおせる。これがアドルノ/ホルクハイマーの啓蒙批判の全貌である。

オデュッセウスはこの神話と啓蒙の格闘を生きる。そして彼が打ち立てるのはまさしく今日私たちが「主体」として享受するところのモデルであるために、彼は「経済人」(130頁)と呼ばれ、「資本主義経済の原理を体現」(130頁)しており、「市民社会を構成していた根本原理に従って」(131頁)生きている、と言われるのである。

セイレーンが聞こえるか?

このようにアドルノ/ホルクハイマーの議論は、人間と自然のあいだの支配関係のみならず、自然を征服して主体を形成したはずの人間が再び支配に服することになる理由を解明する。では、芸術はどこに位置付けられるか。実は、セイレーン譚は芸術の起源への思索である。

啓蒙と進歩が手を取り合うとき、ひとは現在を未来のために犠牲にして、過去を現在の背後に押しやる。これによって過去は死に絶え、現在は抑圧される。芸術は、本来このような時間性からひとを解き放ち、救済するたぐいのものである。

過ぎ去ったものを、進歩の材料として役立てる代わりに、むしろまだ生きているものとして救出しようとする熱望は、ただ芸術のうちでのみ充たされてきた。過去の生活の叙述としては、歴史もこの芸術の中に含まれる。芸術が認識と見なされることをあきらめ、かつそうすることで実践と手を切るかぎり、芸術は快楽と同様、社会の実生活から寛容にあつかわれる。しかしセイレーンの歌は、まだそういう芸術になるほど無力化されていない。(72頁)

セイレーンの歌は「みのり豊かな大地の上におこったかぎりのすべて」を知り、その声で誘惑するがために、生きている過去の声、芸術の声である。芸術は社会に阿るものではなく、大衆迎合するたぐいのものではない。何故なら芸術とは管理された快楽のように大衆の麻痺に資するものではなく、その逆に、反-社会的な性格を有しているからである。

オデュッセウスはセイレーンから脱出するために、自らを帆柱にがんじがらめにして、仲間の兵士たちの耳を蝋で塞ぐ。これでもって、自らはその声色を耳にしながら死の危険を回避し、兵士たちは何も聞こえない状況でがむしゃらに働く。アドルノ/ホルクハイマーはこれを芸術鑑賞者と労働者の隠喩として捉える。

彼が自分を実生活に取り消しようもなく縛りつけた縛めは、同時にセイレーンたちを実生活から遠ざけている。つまり彼女たちの誘惑は中和されて、たんなる瞑想の対象に、芸術になる。縛りつけられている者は、いわば演奏会の席に坐っている。後代の演奏会の聴衆のように、身じろぎもせずじっと耳を澄ませながら。そして縛めを解いて自由にしてくれという彼の昂ぶった叫び声は、拍手喝采の響きと同じく、たちまち消え去っていく。こうして先史世界からの訣別にあたって、芸術の享受と手仕事とは別々の道を辿る。この叙事詩はすでに正しい理論を含んでいる。文化財と命令されて行われる労働とは、相互に密接な関連を持っている。そしてこの両者の基礎にあるのは、自然に対する社会的支配への逃げることのできない強制力である。(75頁)

芸術を鑑賞するだけの余裕のある資本のある人間は労働者を自らの手足として利用しながら、自分は安穏とした椅子に座って芸術に耳を傾ける。しかし、それは芸術のもつ本来の危険性を殺いだ、無力化された芸術である。啓蒙によって自己を抑圧することを学ぶことによって、芸術を鑑賞する能力すらも衰える、と彼らは説明する。オデュッセウスと同時に、彼によって耳をふさがれた労働者たちにもその退化は訪れる。そのことを彼らは次のような印象深い言葉で語る。

今日の大衆の退歩は、自分の耳をもって聞えがたいものを聞き、自分の手をもって把えがたいものに触れることができない無能さのうちに現れている。これは大衆眩惑の新しい形態であり、征服された各種の神話的眩惑にとって代るものである。(78-79頁)

また、補論では、オデュッセウスを十分に誘惑することのできなかったあとのセイレーンの運命が推測されている。それはおそらく死だ。謎を解かれたスフィンクスが自殺したように。そしてセイレーンの死は芸術の死でもある。人類は芸術を失ったのだろうか?

幸福にして不幸なオデュッセウスとセイレーンたちとの出会い以来、あらゆる歌謡[リート]は病んでしまった。そして西欧の音楽はすべて、文明における歌声[ゲザンク]の不条理に手を焼いているが、しかし、そういう歌声の不条理こそ同時にまた、あらゆる芸術的音楽のために原動力を与えるものなのである。(127頁)

この記述はいささか謎めいている。果たしてセイレーン死後の音楽は再び力を取り戻すことができるか?

まとめ

以上、『オデュッセイア』にみられる啓蒙と神話の弁証法と、そこに由来する音楽の退廃とについて解説した。アドルノは徹底した大衆文化批判論者として知られるが、その音楽文化論の発想源がセイレーン譚にあることも確認できたはずである。

*1:補論2のサド論は確かずっと読み飛ばしてきているので、実際この本を通読したことがない。

*2:断片形式の採用はベンヤミンジンメル、クラカウアーあたりの系譜なのか?

*3:訳者あとがきによれば本論はホルクハイマーが、オデュッセイア補論はアドルノが主導的役割を果したらしいが、ここでは両名併記する。