忘却の余滴 『HIROSHIMA1958』と『愛の小さな歴史』

前回のエントリではアラン・レネ監督、マルグリット・デュラス脚本の映画『二十四時間の情事』(原題:Hiroshima Mon Amour)について書いた。1959年6月に公開された映画の撮影のためにアラン・レネが日本を訪れたのはその前の年、1958年7月のこと*1。原爆の投下からは既に十余年の歳月が経過していることになるが、核兵器への世相的関心は当時必ずしも低くなかったと思われる。そもそも原爆投下について公の議論をするには、52年のサンフランシスコ平和条約発効による日本の主権回復を待たねばならず*2、53年にはアイゼンハワーが有名な平和のための原子力のための演説を行うが、54年のビキニ環礁における水爆実験が引き金となり55年に広島で原水爆禁止世界大会が開かれている。一方58年の4月には広島復興大博覧会が開催され、広島市人口の戦前の水準回復が祝われた。経済成長へと着実に歩みを進めようとする最中にも、歴史を忘れるなという声は響く。そんな微妙な時代の痕跡が映画には刻印されており、たとえば映画の第三部で私たちが目の当たりにする反核平和デモ運動はその一つである。
この58年という年からまさに五十年後、2008年に、広島をはじめとしたいくつかの都市で、写真展が開かれていた。映画の主演女優エマニュエル・リヴァの手になる写真が港千尋多摩美大教授によって偶然(か奇蹟か誰かの思し召しか)発見され、それが公開されたのだ。

HIROSHIMA 1958

HIROSHIMA 1958

ごく私的に撮影された白黒の写真群からは、何と言うことはないけれど、素朴な温かみが、まるで現像されたばかりの写真のように伝わってくる。刊行された写真集の表紙(上画像)もそうだが、子供たちを被写体にしたものが多く、かつ印象深い。彼らはみな笑顔で、落ち着いていて、そのことはちょっと不思議な気分にさせる。彼らはカメラマンのフランス人女性が怖くなかったのだろうか? 日本語を喋れない人物がカメラを向けてきたら、私はけっこう怖い気がする。まあ、ヒロシマではそういうことも日常茶飯事だったのかもしれない。リヴァの優しげな雰囲気にも負うところがあったろう。
写真の発見者である港千尋は、写真展の翌年にエッセイ『愛の小さな歴史』を刊行している。
愛の小さな歴史

愛の小さな歴史

とても刺激的で、どきどきしながら読んだ。
本論である「愛の小さな歴史」(前後は見開き一枚の詩的散文「掌の夜」「カメラとコーヒーカップ」に挟まれている)は五部構成からなる200頁程度の論考である。五部というこの構成は、『二十四時間の情事』が五部構成からなっているのと必ずしも無関係ではあるまい。リヴァが昼ひなかの歴史が語られる「記憶の街」から夜の「忘却の街」へと歩みを進めていくように、本書も、発見された写真の足跡を辿る旅を基調としつつ、写真の歴史、復興の歴史から、死とその瞬間についての思弁的な奈落へと進んでゆく。そして前回のエントリで『二十四時間の情事』の構成について分析したように、第五部では出会いの瞬間が描かれることになるだろう。
私の前回のエントリはたいへん読みにくく不十分なところが多かったが、本書は『二十四時間の情事』について卓見が収められているのみならず、より本質的な議論にまで、読みやすく(四部は少し難しいが)書かれている。是非おすすめしたい。
このエントリは、したがって、この本を讃え、あやかるために書かれている。特に第二部の写真論の内容を解説することになるが、際立って考察を挟むわけではなく、あくまで気になった箇所の紹介である。雑文的に、気安く話を進めたい。

写真の眼差し

わたしたちが、これから映画と写真を対象に行おうとするイメージの探求では、イメージを、目の前に存在するモノとして眺めるのではなく、その形成から分配、所有あるいは消滅までを、人間の経験として考えるという立場をとる。したがってここでは、「見る」ということはいったいどういう経験であるのか、という問いも出てくる。わたしたちは日常的な経験として、昔の写真を見て懐かしがり、あるいはそこに過ぎし日の面影を発見して郷愁を感じる。だが写真に写っている人間をそれとして認知するということは、それほど自明でもないことが、本書でも考察されるだろう。(10頁)

「見る」という体制、構え、視覚的制度は、自明にして不変のものとして存在するのではない。にもかかわらずそれは学ばれると同時にそれ以前の歴史を隠蔽してしまう。なにもエジプト人の美術観と現代人のそれの違い、というような遠大な比較にまで乗り出さずとも、十年前の漫画の質や技法、テレビの画質を持ち出せば、当時は何とも思わず鑑賞していたはずなのに、今日見返せばどこか不自然なものに思えてならないことに気付かされる。単に技術が進歩したというのではない。問われるべきは、我々自身の構えである。
歴史を紐解けば、この変化(あるいは断絶)が「見る」という経験に如何に浸透しているかがわかるというものだ。たとえば写真を認識するという経験。写真のなかの自分を認識するという経験は、鏡のなかの自分を認識するという経験とどれくらい異なるだろうか? 後者にしてからが既に自明なものではない*3が、自分の動作と連動して動く鏡像に対して、写真は既に紙に焼き付けられたものであり、用紙がどれほど経年劣化しても肖像それ自体は老いることがないという点において、なおさら私たちに遠い。それは固定的で、時間を奪われ、永遠の一瞬間を生き続けているように思われる。要するに、そこに写っているのが自分であれ他者であれ、写真は現実とは異なる時空間に存在するものではないのか?
この、上の引用にもある「写真に写っている人間をそれとして認知するということが、それほど自明でもないこと」を積極的に取り沙汰したのは、ドイツのジャーナリストであり社会学者のジークフリート・クラカウアー(1889-1966)であった。彼の提起をパラフレーズすれば、「写真ははたして真実を写しているのか?」というものになるだろう。ここでいう真実とは、きわめて人間的な真実であって、記憶の証言や証拠としての真実というくらいの意味である。この問いに対してクラカウアーは否定的である。どんな写真も、確かにその一瞬間を切り取り、枠づけてはいるが、それが私たちの曖昧な記憶と一致する保証はない。「肖像写真も彼[クラカウアー]にとっては、心のなかに留められているはずのイメージの頼りなさを逆説的に証明するものでしかない。心の像は写真とは違って、空間のなかに確固とした結びつきがないからである。」(77頁)
1927年のエッセイのなかでクラカウアーはこのように写真と記憶の結び付きを否定している。そして、記憶および人間の時間意識が常に死を意識しているのに対して、写真はそこから逃れようとすることを批判している。

若き日の彼にとって写真とは、記憶のなかに入り込んでこようとする死の想起を追い払うために、「写真を山のように積み上げる」ものだった。あらゆるものを撮影しながら、撮影された現在は永遠化されている。こうして「世界は死から逃れたかにみえる」。しかし逆に「実際は死に委ねられているのだ」。(96頁)

人間は死を恐れ、永遠に憧れることが間々ある。肖像画を残すという行為は、自己の面影と栄華を永遠の芸術に昇華させたいという願望の表れであろう。クラカウアーは写真をそのようなものとして捉えている。写真を撮るという行為は、永遠への飽くなき、不毛な営為の一種である、とでも言うように。
ところが著者がイタリアの歴史家カルロ・ギンズブルグ(1939-)の見解として引いているのは、クラカウアーの「転向」である。つまり、写真と記憶との和解、写真が死から逃れるためではなく、死を見つめるための媒体でありうるという見解への移行が果たされたとする。その転向は戦後に起きたものだとされるが、ギンズブルグがその要因として挙げているのは、なんとヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)とのやりとりであり、彼に紹介されたプルーストの写真観である。

ヴァルター・ベンヤミン

クラカウアーは一九四〇年、マルセイユアメリカ合衆国への亡命を準備していた。プルーストについての言及はまずアメリカで一九六〇年に出版された『映画の理論』に現れるが、その省察マルセイユで始まったものだった。
そのマルセイユでクラカウアーはヴァルター・ベンヤミンに会って、映画にかんする彼の計画を話し合ったことがわかっている。ギンズブルグは、このときにベンヤミンが、プルーストの件の箇所について友人の注意をうながしたのではないかと推測するのである。(96頁)

件の箇所というのは、プルーストの小説『失われた時を求めて』の語り手が予告せずに祖母を訪れ、そのときの祖母のすがたが、普段の親密な様子とは懸け離れたものであったときの感覚を語っているところで、「私が祖母の姿を認めたこのときに、私の目の中に機械的に写されたのは、なるほど一枚の写真であった。」(95頁『失われた時を求めて』孫引)と結ばれている。この瞬間の情愛や感情を欠いた祖母のすがたは死者と見紛うようなもので、ここでの語り手はその無機的な眼差しを写真の眼差しと比喩的に言っているのである。
失われた時を求めて』のドイツ語訳を試みていたベンヤミンは、じっさい数年前にこの箇所を翻訳しており、ここから写真とは「やがて来ることになるもの」である死をそこに写し出すものだと考えるようになったらしい。このような考えをベンヤミンはクラカウアーに伝え、クラカウアーもまた写真が写し出す死を信じるようになったのではないか? そのように推察されている。
クラカウアーとベンヤミンの態度の違いを、整理し直してみよう。クラカウアーはいささか主意的に思われる。記憶の可動性に対して写真は硬直的で、人間の生を十分に写し出さない。ひとは時間のなかで生を生き死を想うものであるにもかかわらず、写真は死から逃れようとしており、実存的な意識からの逃避である。というように。それに対してベンヤミンは、意識の限界を定め、写真のなかに、意識からの逃避というよりも、より豊かな無意識の領域を見出そうとしている。プルーストの語り手が一種の異邦人として祖母宅を訪れたときに驚きとともに目撃した死の空間と同様に、写真のなかには普段の生とは異なる空間が拡がっており、そこに驚かされてしまう。

画面の目立たない箇所には、やがて来ることになるものが、とうに過ぎ去ってしまったあの撮影のときの一分間のありようのなかに、今日でもなお、まことに雄弁に宿っている。だから私たちは、その来ることになるものを、回顧を通じて発見できるのである。眺める者は、この目立たない箇所を発見せずにはいられない。カメラに語りかける自然は、肉眼に語りかける自然とは当然異なる。異なるのはとりわけ次の点においてである。人間によって意識を織り込まれた空間の代わりに、無意識が織り込まれた空間が立ち現れるのである。(97頁『写真小史』孫引き)

普通私たちがぼんやりとした意識とともに捉える世界は、心理学でいうところの選好的な注視によって構成されており、脳内に記憶されるものはごく一部に過ぎない。ところが、フロイトが意識と無意識の関係について提起したように、その背後にははるかに豊かな無意識の領域が存在しているのである。写真は撮影者が焦点をあわせたもの以外もすべてその空間内に収めてしまうために、「目立たない箇所」に雄弁な何かが隠れている。それゆえ写真による想起とは既知の事実というよりも、未知の体験に属するのである。
議論は既に、「私たちは写真のイメージに現実を認めることができるか?」という問いから、「写真のイメージの異質性をどのように引き受けるべきか?」という問いへと移行しているように思われる。そしてその異質さは、細部に、本当にごく目立たない箇所においてこそ引き立てられるのだ。写真の真実は、非人間的、非意志的な真実である。

小さな歴史

掬い上げる掌からこぼれてゆくいとけなきものにこそ、より広大な神秘が隠れている。このような考え方は、歴史についてのベンヤミンの見方にまで通底している。大きな歴史物語すなわち勝者たちの歴史において語られなかったものども――小さな歴史、敗残者たち、落伍者たち――への彼の優しい眼差しは、写真を眺めるとき、細部をなぞり、愛撫するのだ。
ベンヤミンのこのような写真観を紹介しながら、著者の港千尋が(やはりギンズブルグ的な歴史観として)紹介し、表題にまでしているのが「小さな歴史(マイクロヒストリー、ミクロイストワール)」である。それは文字通り、ごく目立たない歴史であり、声を奪われたひとたちの歴史である。『二十四時間の情事』は、語られざる戦争をテーマにしつつ、その実不倫恋愛の話しかしていないという点で「小さな歴史」の好例である。歴史の舞台が如何にも肥大化してゆき、水爆を数発落とせば人類が地球が全滅するということがまことしやかに語られるようになった時代に、微小な愛の物語に注目するのは何故か?

科学技術の圧倒的な力を背景にして、あらゆることが計算に基づき巨視的に語られる時代に、あえて人間の微細な次元へ焦点を合わせてゆく精神の働きは、時代にたいする抵抗の一歩と言ってもいいかもしれない。たとえばジョヴァンニ・レーヴィの著作『村の権力』のフランス語訳に序文を寄せたジャック・ルヴェルはそれを「地べたの歴史」と表現した(「ミクロストリア」註三五参照)(91頁)

そしてまた次のような一節。

ヒロシマで出会った男と女の「小さな物語」が、同じ時代の歴史研究や文学のあいだに同時多発的に現れた「小さな物語」と接触するのは、この[徴候、痕跡に対する]感覚ではないかと思われる。もしそうならば、「時代精神」ではなく、「時代感覚」と呼ぶほうがいいだろう。ただしそれは受身の感覚ではない。微細な現象を用いるには、動物の痕跡を読み解く狩人がそうであるように、なによりもまず観察する力が必要である。ものごとをよく見ること、よく気づくこと。この点において、『ヒロシマ・モナムール』は「見ること」の限界を描きながら、同時に「よく見ること」の大切さを教えている。(93頁)

はじめに述べたように、制度的な学習訓練は、習得と同時にその外部を閉ざし、起源を隠蔽してしまう。それゆえ、それに対する抵抗もまた、容易になされるわけではなく、習得されねばならないのだろう。メディアは、いっぽうでは「見る」ことを忘れさせる力を有しているように、たほうでは、「見る」ことを学ばさせる力を併せ持っている。芸術のあるべき姿とはそのようなものではないか。対象を眺めさせるのではなく、対象の眺め方、その構えを問いに付すことこそ。
二十四時間の情事』の視座が、ベンヤミン省察やギンズブルクら同時代の歴史観とリンクさせられながら、「写真の使命」あるいは「映画の使命」を明らかにしてゆく様をこれまで見てきた。そしてもちろんそれは『HIROSHIMA 1958』におけるエマニュエル・リヴァの写真の眼差しでもある。
「いとおしい」あるいは「いつくしみ」という言葉のもつt音やk音やs音の響きが、何よりも適切にこの眼差しの音楽を説明してくれるだろう。そして私は、この音楽のなかに『愛の小さな歴史』を喜んで加えたいと思っている。AINO-TISANA-REKISHI

*1:ちなみに物語自体はデュラスの指示によれば57年の出来事ということになるが、これは実際のシナリオとは矛盾を来すらしい。「シナリオに従うならば、映画で描かれる一日は、一九五七年ではなく一九五九年、すなわち映画が完成した年になる。フランス人の女性の年齢もまた、三十二歳ではなく三十四歳が正しい。」『愛の小さな歴史』48頁

*2:アサヒグラフ』が原爆被害についての写真公開をしたのは52年8月6日号(参考リンク)。とはいえ、ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』は46年にいち早く出版され、日本にも49年には翻訳されていたというから、その惨禍はむろん伝えられていたろう

*3:たとえばジャック・ラカン鏡像段階論。「見る」ことの歴史性についての重要な指摘。