『二十四時間の情事Hiroshima mon amour』と朝が来るまで終わる事の無いダンスを。


夢遊病的な描写が目立つことに気付かれるのではないか。
この映画は「」を描いた映画、ヒロシマは彼女の夢の舞台、そのような前提でもって話を始めてみたい。
ここで「夢」というとき、その特徴として私が考えているのは、諸事物の厳密な境界の揺らぎと、世界に対する夢見る主体の「気分」の支配性である。そのことは、夢の世界が彼または彼女の意のままに動くということを必ずしも意味しない。むしろ、夢見る主体はそこで翻弄され、にもかかわらずそれが彼ら自身の見ている夢に他ならない、という事実を突きつけられる。そこにはしばしば、「望まれざる願望」が現れることだろう。
このエントリは、「夢判断」「手」「対話」「誤解」「回帰」「治癒」「再生」というセクションからなる。まず、この映画の描く夢の世界について説明して、「手」の重要性を論じる。それから本作を構成する対話の位相、とりわけそれが相互を誤認することによって演じられ、にもかかわらず最終的にはお互いを認識するようになるメカニズムを、ラカン精神分析を援用して理解する。結果として、かなり堅苦しく、抽象的なものになってしまった気もするが、これ以上はどうしようもない。

夢判断

前時代のいくらか夢にかかわる映画に『カリガリ博士』(1920)がある。

表現主義の傑作とされ、誇大妄想狂的な博士が外を出歩くときに彼の思考や心理が外景に投射されるシーンは殊に有名である(上画像)。歪んだ建物、歪んだ世界は作品全体が醸し出す不安を反映(表現ex-pression)している。境界の揺らぎ、気分の支配という、夢に特徴的な事態の現出。
フランス人の女優(役名無し。以下演者の名からエマニュエル・リヴァと呼ぶ)が、映画館やアーケード街の立ち並ぶ真夜中のヒロシマを徘徊するとき(1:11:00〜*1)、私たちはいささかそれに類するものを見出す。たとえ建物が歪むことはないにしても、様々なアングルから捉えられることによって、市街地の在り方は決して固定的にならない。G.フスコの音楽もまた不安げな雰囲気を盛り立てるだろう。ところが、看板・ネオンに踊るのは日本語文字列である。つまり、ヒロシマという世界は彼女の心理表現でありながら、同時に彼女には読み取り得ない記号で書かれていることになる。

夢に関する論者、たとえばルードヴィヒ・ビンスワンガー(1881-1966)は、夢の世界はどれほど荒唐無稽であっても夢見る主体の表現する世界なのだと考える。そうした見解を受け入れれば、彼女の内面は、彼女自身にも理解不可能な記号から構成されている、と言えよう。本来一つのものであるはずのものが二つに分割され、内面世界はヌヴェール、外界はヒロシマと名付けられた。物語の時制である1958年ヒロシマの景色は、1945年前後にリヴァが青春を過ごし初恋を知りそして奪われた土地、ヌヴェールと重ね合わせながら展開される。ヌヴェールの「真実」がぽつぽつと語り明かされるにしたがって、観客は、この小さな愛の物語を通して、ヒロシマにおける十万の語られざる物語に接近することができる。いずれ私たちは、その出会いの瞬間に立ち会うことになるだろう。
しかし、その出会いは必ずしもスムーズに行くわけではない。「言葉や身体を交えることによって、彼らはお互いを理解し合い、癒し合った。」そのような解釈に満足しては、この映画を捉え損なうだろうし、映画のラストで置き去りにされてしまう。そもそもにしてからがヒロシマ/ヌヴェールに別々のカメラマン(サシャ・ヴィエルニ/高橋通夫)を手配して、互いに交流させることなく編集された本作は、異なる作法で制作された二つの作品をモンタージュしたものと言ってよい。そしてそのことは、ヒロシマ/ヌヴェールのむしろ徹底的な差異をこそ露わにするのではないか。

夢についての言及は男女の最初の情事のあと、まだ眠っている男(同じく役名無し。以下岡田英次と呼ぶ)を和装したリヴァが眺めるシーンに示唆的に現れる(0:18:00〜)。

Elle : A quoi tu rêvais?
Lui : Je ne sais plus... Pourquoi?
Elle : Je regaidais tes mains. Elles bougent quand tu dors.
Lui : C'est quand on rêve, peut-être, sans le savoir.
彼女:何の夢を見てたの?
彼:わからないな……どうして?
彼女:手を見てたのよ。寝てるときに動いてたわ。
彼:寝てるときには、それと知らずに動いてるのさ、きっと。*2

手の動きに注目しろ、という明白なメッセージ。「理性的なraisonnbale」(この語は映画のキーポイントで発せられる)人間は、かくあるために平生から多くの欲望を抑圧しながら日常の生を営むが、抑圧が適切に機能しない場合、それが再浮上するということがありうる。それを精神分析の文脈では「抑圧されたものの回帰」というが、このとき、抑圧されたエネルギーがそのままのかたちで現れるということは滅多にない。芸術や夢、神経症といった類は、かかる欲望の加工された表現であり、手の動きは抑圧の存在を示す神経症的メッセージである。
とはいえ、ここでは岡田の手に注目するよりは*3、その動きにかつての恋人、ヌヴェールのドイツ人を重ね見てしまう、リヴァ、彼女自身の手への注意を促す。彼女の手は常に自己の存在を主張してやまない。たとえば、地下室に閉じこめられ、壁をかきむしり続けることで血を流し、その血をあなた(死んだドイツ人)の血と混同することで、痛みのなかに彼と苦しみを分かち合うという慰めを得るリヴァ。その次のショットで彼女がアルコールの入ったグラスを掴むとき、彼女の手は美しい(0:45:10〜)。あるいは、ドイツ人と交際していた自分が同胞たちに戒めとして剃髪されたこと*4を告白したあとのリヴァ。硬直したまま震える彼女の手は、岡田が握りしめることでようやく収まる(0:53:07〜)。これらに明らかなことだが、リヴァの手は、ただ彼女の苦しみを物語るに留まらない。彼女には経験することのできないドイツ人男性の死(「いつのこと? もうはっきりとはわからない*5」(0:56:38〜)と彼女は言う。)を、せめてその痛みや苦しみを分有するというかたちで留めておきたい。そんな彼女自身の強靭な意志を、彼女の手が請け負っているのである。「手のことでさえ、よく覚えていない。苦しみのことは、まだ少し覚えている*6」と彼女は言う。覚えているのは、その忘れられた手なのだ。
映画『インセプション』(2010)は、他人の夢のなかに潜り込む技術が存在する世界を描いているが、潜入者自身が夢の世界を現実のそれと混同しないように、本人にだけそれとわかるトーテムを持ち運ぶことになっている(ディカプリオ演じるドムなら、駒を持っていて、それが永遠に回転し続けるときは夢だとわかる)。リヴァの手はそのトーテムのようなもので、夢の世界(「ヒロシマでは、夜が決して終わらないのね*7」(1:02:32〜))においてもその震えによって、その世界が夢だと発信し続ける。とはいえ、リヴァ自身はそのトーテムに気づきえない。手はひたすらに彼女を導くだけで、それがどこへ向かうのかも彼女にはわからない。そして手はつながりの相手を求めているのだ。それを握ったのは岡田だった。

対話

今更だが、この映画についてどのように理解すればよいだろうか? あらすじだけ追えば、1958年、ヒロシマを訪れたフランス人女優が、建築家の男性を知り、愛する。お互い家庭を持っているから、これは不倫である。彼女は一日を待たずに帰国せねばならないが、二人の離れがたさは募るばかりだ。お互いを語るうちに、彼は、彼女が終戦前後にヌヴェールでドイツ人の恋人を亡くしており、またその愛がもとで対独協力者として幽閉されていたことを知る。夜も更け、女はヒロシマを徘徊し、男は後を追ってヒロシマに留まるよう説得を試みるが、叶わない。混迷が頂点を極めたあとに、女は男を"HIROSHIMA"と呼び、女は男を"NEVERS"と呼ぶ。映画は終わる。
一般に言われているように、この映画は上記のようにヒロシマを舞台としながら、ヒロシマそして原爆を主題としているとは思い難いところがある。(この意味で「平和についてでなければ、ヒロシマで映画を撮ったりしないでしょう?*8」というリヴァの言葉はいささかアイロニックな自己言及である)。男女の関係、それも不倫を題材とする本作は、冒涜的にすら思える。だが、本作の脚本を担当したM.デュラスに言わせれば、「真に冒涜的なのは――冒涜などというものがあるとすればだが−−それはヒロシマそれ自体*9」である。
まず容易な解釈として、この映画は、ヒロシマについて語るために、敢えてヌヴェールのトラウマを語り、そこから逆照射してヒロシマを語ろうとしている、あるいはその語り得なさを語ろうとしているのだ、という意図を汲みとることができる。岡田とドイツ人(ふたりはしばしば混同される)、太田川とロワール川、原爆被害者たちの渇きリヴァの渇き、白ネコ黒ネコ、という対照群は、ヒロシマ-ヌヴェールのつながりを示唆し、リヴァという一個人の悲恋が、ヒロシマの原爆という十万以上の苦しみに通じてゆく。ここでの対照を矮小化ということはできないし、許されもしないだろう。原爆を集団的政治的問題として捉えることだけが、そこに触れる手段ではない。小さな愛の苦しみ、それだけが世界の痛みや苦しみ、あるいは怒りを表現するための手段になることもありうるのだ。
とはいえ、確かにこの対照が、そしてヒロシマ-ヌヴェールの出会いが映画の核心であるにせよ、その出会いの内実について深く立ち入ることなしには、私たちはヒロシマについてもヌヴェールについても知ることができない。この映画は、ヒロシマとヌヴェールという異なる地にいた者同士が、出会い、互いの過去(岡田は自分の過去を殆ど語らない。家族が原爆で死んだことを除けば)を知り、同じような苦しみを抱えたもの同士が対話によって癒されていく、といった物語を形成しない。そういうことを私は信じない。「同じような苦しみ」といったものは存在しない。他人の痛みは、知るということも比べるということもない。そのようなレベルでの「対照」は存在しない。このことを考えてみたい。

誤解

余りにも有名な「君はヒロシマで何も見ていない 何もTu n'as rien vu à Hiroshima. Rien.」「私はすべてを見たわ すべてをJ'ai tout vu. Tout.」というやりとりから始まるこの映画は、初めから決定的な差異、共通認識の不在を打ち出す。ところが、あたかも歴史認識論争の如き様相を呈する二人のギャップは、映画の進行上少しずつ薄らいでいくようにも思われる。一連のシークエンスの終りに恋人たちの笑いが響いてから(0:14:40〜)は、二人の間柄もそれまでの緊張感を解いて親密さを増す一方に見受けられるし、彼女がヌヴェール体験を語り出すと、岡田は精神分析家のように「喋りなさい、もっと"parle, parle encore"」と彼女の言葉を促し、引き出してゆく。
では、彼女を過去の呪縛から解放したのは彼だろうか? それは一面では正しいが、それを果したのは所謂「対話」の効果によってではない。彼が彼女の言葉を理解して、受け入れたからではない。というのも、彼らの差異、共通認識の不在は相変わらず続いているからだ。
まず岡田の方から見てみよう。彼は不思議な人物である。というより、リヴァの存在及び過去の濃密さに比して、彼はいくらかフラットな人物に思える。原爆で家族を失ったことが彼の劇中での行為にいくたりかでも影響を及ぼしたことを見定めるのは難業である。むしろ彼の関心はひたすらに目の前のエマニュエル・リヴァその人に向かっている。彼女の過去についても、彼は「君がいまの君になったわけが分ったような気がするよ*10」と言うだけで(彼女はそれに答えない)、現在の彼女を知るための材料と考えているにすぎない。それゆえ、ヌヴェールの話を聞き終えたとき彼が真先に尋ねるのは、この話が余人に語られたことがあるかどうかだ。夫にさえも語ったことはないという答えを得て、彼は狂喜する。何故なら、彼にとっての競争相手は死人のドイツ人ではなく、いま彼女を占有している夫だからだ。この点で彼は思い違いをしている。彼女が「十四年間忘れていた恋」というとき、夫は物の数に入っていない。彼の歓喜に「黙ってTais-toi」と答えるだけの彼女の反応を見ても、それが相手に合わせてみせたものにすぎないとわかる。
他方でリヴァも岡田を見違えている。ある時点から彼女があなたtoiと言う時、それはドイツ兵なのか岡田なのか判然としない。岡田もそのことは理解していて、「君が地下室にいたとき、ぼくは死んでいたんでしょう?*11」と嘯いてもみる。彼女の視線は、現在を見ているようで、常に過去に囚われているのである。
さらにもう一つのすれちがいの例。
過去を語り終えた彼女は、街を徘徊しながらモノローグで自問自答してゆく。彼女は、過去について語ったことで、ドイツ人男性を裏切ってしまったのだと感じている。語ることで、彼のことを忘れてしまうのだと。それは忘却との格闘であるが、ここでは「忘却」の二つの位相に気を付ける必要がある。
一つは、これまでの十四年間の忘却だが、これは厳密には忘却ではない。何故なら彼女の苦しみは残り続けていたし、手がその苦しみの証人であり続けたからだ。彼女はそれについて語らず、一見平穏で理性的な(raisonnable)生活を送ることで、かえって狂気を、語り得ないものを保存し続けてきた。
二つは、いまここで彼女を襲う忘却であり、これこそ忘却の名に値する。それは語ることによって忘却する。一般に語ることによって記憶を保存すると言われているのは、それは正しくない。私たちは語らないことによって保存するし、語ることによって忘却する。何故なのか。言葉の脆さのゆえか。感情の脆さのゆえか。何故かはわからないが、「とにかく」そうなのだ。
駅のベンチに座ったリヴァは喋らない。同じベンチに座った岡田も敢えて話しかけない。ふたりのあいだに座っている老婆が、岡田に話しかける。

老婆「このひとはどこのひとなんですか?」
男「フランス人です」
老婆「ご病気なんですか?」
男「いや……彼女はもうすぐ日本を発つんです ぼくたちは愛し合っているので、別れるのがつらくて二人とも悲しんでいるんです」
(1:19:00〜)

尋ねられたとき、彼は「ぼくたちは愛し合っているので」と答える。彼は彼女を理解していない。彼女が闘っているのは、ただただ自分の過去だ。彼は目の前の彼女しか見ていないから、それを見落とす。このように、この映画に満ちているのは、理解ではなく、誤解、誤認である。そのような状況で、「ぼくたちは愛し合っているので」と言えるのか? 友好あるいは姉妹都市といった絆は生まれるのか?

回帰

それでも愛が始まろうとしている。
彼女はドイツ人男性を忘却するのと同じように、彼女自身の過去をも忘れてゆく。
否応なく。忘却は受け入れられ。そして歌が生まれ。

Elle: Un jour sans ses yeux et elle en meurt.
   Petite fille de Nevers.
   Petite coureuse de Nevers.
   Un jour sans ses mains et elle croit au malheur d'aimer.
   Petite fille de rien.
   Morte d'amour à Nevers.
   Petite tondue de Nevers je te donne à l'oubli ce soir.
   Histoire de quatre sous.
   Comme pour lui, l'oubli commencera par tes yeux.
   Pareil.
   Puis, comme pour lui, l'oubli gagnera ta voix.
   Pareil.
   Puis, comme pour lui, il triomphera de toi tout entier, peu à peu.
   Tu deviendras une chanson.*12
彼女:ある日その眼もないところで、彼女は死ぬ
   ヌヴェールの少女は
   ヌヴェールの尻軽娘は
   ある日その手もないところで、彼女は愛することの不幸を想う
   何者でもない少女は
   ヌヴェールでの愛の死は
   ヌヴェールの丸刈り娘よ 私はあなたを今夜忘れてしまう
   値打ちのない物語よ
   彼と同じように、忘却はあなたの眼から始まる
   同様に
   それから、彼と同じように、忘却はあなたの声を捉える
   同様に
   それから、彼と同じように、忘却は完全にあなたを支配する、少しずつ
   あなたは歌になる
(1:18:00〜)

彼女は過去を語ることで裏切り、それらを忘却に沈めてしまう。彼女は過去を忘却から守るためにありったけの力を注いだのだから、忘却は彼女にとって絶望的なことだが、しかしその到来の否応なさは、彼女を別のところへと導いていくことになる。つまり、治癒へと。

治癒

このような議論に持ち出すのは反則技にも思えるし、関心のないひとは読み飛ばして差し支えないが、以前読書会で読みそれなりに感心もしたので、備忘のためにもここで精神分析ジャック・ラカン(1901-1981)の理論を引こう。
『エクリ』に所収された通称「ローマ講演」と呼ばれる彼の講演「精神分析におけるパロールとランガージュの機能と領野」(1953)*13の問題設定のひとつは、分析がいつ終わるか、つまり、患者はいつ快癒したと言うことができるか、である。
当時精神分析の技法は、セッションの時間を厳密に定め、決められたマナーを守ることで患者を治癒に導こうとしていた。そのためには患者が語りたいことを語り、それに分析家が適切な解釈を与えてやることが必要とされた、という。ところがラカンは、セッション時間を不規則に、時には患者の言葉をぶつ切りにすることでお終いにした。これを短時間セッションという。この論文には彼の創始したこの方法論を擁護するという底意がある。つまり彼は、この短時間セッションという方法論こそが、患者を快癒に導くと考えているのだ。何故か。
彼に拠れば、患者は必ずしも自分の言葉を適切に伝えられているわけではない。むしろ、伝えようと思えば思うほど、相手はその伝達内容を誤解しているように思われて、イライラしてしまう。意図が実現しない、伝達が成功しないことで、患者はフラストレーションに陥る。このような患者-主体*14の意図ばかり膨らみ、伝達が果たされない言葉を、ラカンは「空虚な言葉parole vide」という。しかし、それは聞き取り手の問題だろうか? 「自分は他人にわかってもらえない」と悲観する人間がいるが、そういうひとはそう考えることでますます言葉を空虚にしていることに気付かない。

Demandons-nous plutôt d’oû vient cette frustration ? Est-ce du silence de l’analyste ? Une réponse, même et surtout approbatrice, à la parole vide montre souvent par ses effets qu’elle est bien plus frustrante que le silence. Ne s’agit-il pas plutôt d’une frustration qui serait inhérente au discours même du sujet ?
むしろ我々は、このフラストレーションがどこからやってくるのかを問うべきではないか? 分析家の沈黙から? 空虚な言葉に対する返答は、それ自体が、そしてそれがとりわけ賛意を示すものであるとき、しばしば沈黙よりも強いフラストレーションを起こす。ここで問題になっているのは、むしろ、患者の話それ自体に通底しているフラストレーションではないか?

つまり、患者の話、あるいは患者が自己を伝達したいという意図それ自体が、本質的に欲求不満であるために、それに対する如何なる応答も十分な満足をもたらすには至らない。まだしも、黙っていたほうがマシだ、というわけだ。
他方、「充溢した言葉parole pleine」というものも存在する。それは、患者がすべてを伝えようと、「本当の自分」を理解させようと努めることを諦めたときに生ずる。何故このような逆説的な事態が起きるのか? ひとが考える「本当の私」とはそのひとの幻想に過ぎないと考えられるためである。「私」という確たるものが存在して、それを相手に伝えねばならないのであれば、それを伝える容器としての言葉はあまりに貧しく、空虚である。だが、「私」はそのひとの頭の中にだけ存在する抽象的な存在ではなく、発話のなかに、言語のなかに奥深くまで組み込まれたものだろう。それゆえ、精神分析家が目指すのは、このような患者の幻想を打ち砕くことであり、短時間セッションはその破壊に奉仕している。

Tout au contraire l’art de l’analyste doit être de suspendre les certitudes du sujet, jusqu’à ce que s’en consument les derniers mirages. Et c’est dans le discours que doit se scander leur résolution.
それ[本当の、客観的な私が存在する、などという幻影]とはまったく反対に、精神分析の技法は患者の確信を、その最後の幻影が消え去るまで失効させねばならないのである。それら幻影の解消がスカンシオン[分節化]されるのは、ディスクール(話)においてである。

このような幻影が失効させられたとき、患者に残るものはいったい何か? あらゆる意味、あらゆる意図の不在だろうか? あらゆる主体性の不在だろうか? そうではない。幻影に服従して、言語をそのために奉仕させることをやめたとき、言語のなかで、言語においてこそ、あらゆる意味、あらゆる意図の創造的主体が、あらゆる主体性の根拠がうまれる。たとえばあるトラウマ的出来事を想起するとき、患者がその出来事に囚われ、その出来事によっていまの自分が作られており、そこから逃げることができない、トラウマを身に宿した私こそが「本当の私」だと確信しているならば、彼または彼女は病的である。その出来事の現実性を確信しているために、不変の私に囚われているだろう。それとは反対に、言語のなかで、言語においては、そのような不変的なものは存在しない。真理は、発話のなかで誕生するものであり、常にそのかたちを変えてゆく。

Soyons catégorique, il ne s’agit pas dans l’anamnèse psychanalytique de réalité, mais de vérité, parce que c’est l’effet d’une parole pleine de réordonner les contingences passées en leur donnant le sens des nécessités à venir, telles que les constitue le peu de liberté par oû le sujet les fait présentes.
カテゴリー的に区分すれば、精神分析的な想起において問題になっているのは、現実性ではなく、真理である。何故なら、過去の偶発事を再び秩序づけ、主体がそれを現在のものとするわずかな自由によって構成するような、来たるべき必然事という意味を与えることこそが充溢したパロールの効果だからである。

欲望は一度死なねばならない。それは自分のすべてを理解してほしいという要求だ。幼児が母親に願うような。それがありえないことを受け入れ、断念することによって、欲望は世界中に広がる。この断念は、言語という象徴の世界に服従することで達成される。言語を用いるかぎり、自己イメージを透明にありのままに伝達することはできないからである。そのような意図にとって、言葉は障碍に過ぎず、邪魔者だ。それとは反対に、言語を学び、それに服従する者は、かえって言語を道具として用いることができる。彼は言語に服従することで自己の欲望を言語の隅々にまで分節させ、そこに自己を見出すことができる。

Ainsi le symbole se manifeste d’abord comme meurtre de la chose, et cette mort constitue dans le sujet l’éternisation de son désir.
このように象徴は、まず心的な事物の殺害者として現れ、この死が主体において欲望の永遠化を構成するのである。

誰しも言語なしには語り得ないのであり、もしひとが幻想と錯誤のゆえに自己を言葉抜きで伝達できると思いこんでいても、分析家が耳を傾けるべきは彼の意図ではなく彼の言葉それ自体である。彼が幻想から抜け出し、言語の服従者にして使用者であると自らを認めるとき、分析は終わる。分析は患者を言葉的共同体に送り返すからだ。短時間セッションはそのために、彼の言わんとする言葉すべてには敢えて耳を傾けず、患者自身を意図から宙吊りにされた言葉自体に向き合わせて、彼自身の意図せぬ言葉に直面させるのである。「何故ならこの技法が話を断ち切るのは、言葉を生み出すために他ならないからである*15

再生

二十四時間の情事』に戻ろう。リヴァと岡田のやりとりは、上で論じた患者と精神分析家の対話に通ずるものがある。リヴァの忘却は、言語によって彼女が過去の意味を決定する主体になってゆくプロセスを描いている。ここで岡田の役割は、リヴァの言葉を適切に理解して、彼女を受け止める、などといったものではない(彼はそれができたと信じているようだが)。彼には能動的な役割は期待されていないのだ。ただ、彼女はその誤解のさなかで、鮮烈で言語化不可能な幻影として自らのうちに保持してきたものを語ってしまうことによって、言語の秩序に服従する。それによって彼女は(正確に言えば、彼女の幻想の主体は)死ぬ。しかしそこには再生renaissanceがある。読み取り不可能な記号に、彼女自身が意味を与えて、再び秩序付けていくのである。
短時間セッションの役割を果すのは、岡田の平手打ちだろう。「初恋だったのよ!C'etait mon premier amour!」と叫ぶリヴァに彼は平手を食わす(0:57:24〜)。彼女の言葉は突如として断ち切られ、バー「どーむ」の客たちはいっせいに二人に振り向き、その眼差しとともにリヴァの意識は現実の秩序に帰ってくる。彼女の幻想は失効させられてゆくのだ。
このように、彼らのやりとりは、お互いを理解することのないものでありながら、それにもかかわらず伝わってしまう言葉それ自体の強制力によって結び付けられ、リヴァを過去の忘却へと導いてゆく。
対話を不可能性でもってひとくくりにしてしまうのは、語の響きと諦念のヒロイズムにやられた者だ。その可能性を過剰に信じ込むのは、ただの愚者だ。そのように私には思われる。不可能性と過剰な可能性、その中間に言語の領域を見出す必要がある。
新しく生まれるとき、それは夢からさめてしまうときだろうか。あるいは、いまだにトーテムは、それが夢であると警告を発し続けているかもしれない。それはわからない。しかしラストの場面で、二人はまるで、二十四時間の情事のあとに、初めて出会ったかのように言葉を交わす。この作品の構造を、出会いに始まり、別れに終わるものと捉えてはいけない。終幕に私たちが目にするのは、ひたすらに引き延ばされた出会いの瞬間である。そこで演じられているのは、まったく新しい出会いであり、まったく新しい始まりである。
夜の闇が晴れて、夢からさめてしまうとき、彼らはお互いを初めて認識する。Hiroshima-Nevers.

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*1:以下、場面については冒頭の動画からだいたいの該当時間を示す

*2:以下、引用はMarguerite Duras, Hiroshima mon amour, Gallimard(Collection folio),1971(2010),44-45頁より。訳は自分。

*3:岡田は何を抑圧しているのか。岡田は何を考えているか。岡田とは何者か? これは興味をそそる問いだ。

*4:「非国民」への剃髪行為はフランス・レジスタンスの鬱憤を晴らすように終戦直後に行われた。『映像の世紀』を参照。

*5:Quand? Je ne sais plus au juste.100頁

*6:Même des mains je me souviens mal... Dela douleur, je me souviens encore un peu. 102頁

*7:La nuit, ça ne s'arrête à Hiroshima? 105頁

*8:Qu'est-ce que tu veux qu'on tourne à Hiroshima sinon un film sur la Paix? 53頁

*9:Ce qui est vraiment sacrilége, si sacrilége il y a, c'est HIROSHIMA même 「シノプシス」10頁

*10:C'est là, il me semble l'avoir compris, que tu as dû commencer à être comme aujourd'hui tu es encore. 81頁

*11:Quand tu es dans la cave, je suis mort?

*12:118頁

*13:以下、引用の訳は自分。既訳は翻訳史に残る悪物である。ネット上にはいくつか部分的な試訳が存在する。原文も見つかる。

*14:どちらもフランス語ではsujet

*15:Car elle ne brise le discours que pour accoucher la parole.