『イリアス』を読むために

イリアス〈上〉 (岩波文庫)

イリアス〈上〉 (岩波文庫)

イリアス〈下〉 (岩波文庫)

イリアス〈下〉 (岩波文庫)

前1400-1200年頃の出来事とされるトロイア戦争を歌った英雄叙事詩群(叙事詩環)のひとつである『イリアス』――これは「イリオス(トロイア[ホメロスの用いるイオニア方言系ではトロイエ]の異称)の歌」という意味らしい――は、前八世紀頃の人物と伝えられるホメロスによるもので、同じく彼の手に帰せられる『オデュッセイア』と並び讃えられてきた。これらの功を以てホメロスは「西洋文学の父」と称されることになり、その影響については、今日においても西洋的思考の根源をなすものと考えられている。ちなみに私は中学の英語の授業で知って以来Even Homer sometimes nods(ホメロスでさえ時には居眠りする=弘法も筆の誤り)という諺が好きだが、当時の他作品と比べても群を抜いて長大で、また息もつかせぬほどの迫力でもって読者を魅了するこの大詩篇は、じっさい、如何なる物語であるか?

ギリシア神話世界

叙事詩環のひとつである、と述べたように、『イリアス』は壮大な神話的世界のごく一部に過ぎない。なにより、ホメロスを読むためには、背景としてのギリシア神話についての最低限の知識が必要である。と言って必ずしも気負う必要はないが、ゼウスという主神がいて、オリュンポスという神々の住まう山の支配者であるが、これがまたどうしようもない好色漢であることくらいは知っておきたい。そしてギリシア神話においては、「トロイア戦争」が地中海世界の帰趨を決定するうえでなにより重要であること、これは『イリアス』『オデュッセイア』がともに同戦争とその後を扱ったものであることからも明らかであるが、『イリアス』は、なんとトロイア戦争勃発から十年目の出来事を歌ったものである。つまり、同作には戦争の発端もそれまでの経過も描かれない。これらの出来事については『キュプリア』(プリキュアではない)という叙事詩に詳しいとされるが、現在わずかな断片しか残っていない。

そこでひとつ補おう。発端として最重要な事件は、「パリスの審判」についての知識である。これはルーベンスの絵など著名な西洋絵画の主題のひとつともなったが、あらましを言えば、ヘラ、アプロディテ、アテネの三女神が自らの美しさを競い、その判定をパリスという男に委ねたのである。三女神はそれぞれ自分を選ぶ褒美を提示したが、最終的にパリスは「最も美しい女を与える」としたアプロディテを選ぶ。その見返りとしてパリスに与えられたのがヘレネーである。これだけで済めば、ただの暇を持て余した神々の戯れであろう。ところが二人の身分が問題になる。
片やパリスはトロイエの王プリアモスの息子であり、片やヘレネーは後に全アカイア(ギリシア)の総大将となるミュケーナイ王アガメムノンの弟であり自身もスパルタ王たるメネラオスの妻であった。当然最愛の妻を奪われたメネラオスは怒り狂い、この憤怒がアカイア全体に伝播して、トロイエに対する一斉蜂起をもたらす。これがトロイア戦争のきっかけである。なんのことはない、十年に及ぶ戦争のきっかけはひとりの女であり、さらに元を辿れば、美をめぐる女たちの(いくらか醜い)争いなのである。このことさえ理解されれば、何故トロイエの王プリアモスの息子パリスが内外問わず憎まれているのか、また何故ヘラとアテネはアカイア方に、アプロディテはトロイエ方に味方しているのかについて、何が前提とされているのかわかるだろう。
とはいえ、さらでだに時代も場所も遠く隔たる世界の物語である。読者にあまり多くを求めてハードルを高くしてしまうのは、この飛び抜けて「面白い」物語を味わう機会を奪うことになりかねない。教養趣味的な知識を並べ立てるのはこれくらいにしよう。

いくつかのハードル

じっさい、『イリアス』はハードルが高い。事前情報としてのギリシア神話及び地中海世界地政学的布置、総勢で数百を超える人間の系譜と神の系譜、いくらか読み取りづらい独特の詩調、等……。日本の読者にとっては翻訳の問題もある。長短短六歩格で書かれた原文を如何に訳すかは訳者の力量に委ねられるが、現在愛読されているものとしては、『荒城の月』の作詞で有名な土井晩翠による七五調韻文訳、日本で最も著名な西洋古典学者であろう呉茂一による擬古文調訳、そして(私が読んだものだが)松平千秋による散文訳が挙げられる。岩波文庫は、中古書店などでよく見かける三巻本は呉茂一訳で、92年以後の上下巻本は松平千秋訳であるので、別訳である。気を付けられたい。なお、世代交代した呉訳はいまでは平凡社ライブラリーに収録されている。
いざ手に取れば、どの訳にせよ、神人の入り混じる豊饒な地中海世界が待ち受けているが、しかし、その閾、最後の関門は第一歌である。どんな物語を読むにしろ、現実世界から虚構世界へと身を移すためには「構え」が必要になる。小説の冒頭とは、けだし、読者にその構えを与えるものである。『イリアス』の冒頭は、十年の長きにわたって血みどろの争いを繰り広げてきたアカイアとトロイエ両軍の戦況が何故変化したかを説明するものであるが……。
以下、その説明を試みよう。発端はアガメムノンだった。アカイア軍の傲慢な総帥アガメムノンは祭司クリュセスの娘クリュセイスを妾とする。クリュセスは彼女の解放を嘆願して、アカイア軍の大勢の同意を得るのだが、アガメムノンは了としない。怒ったクリュセスは神アポロンに祈願して軍の陣中に悪疫を発生させる。混乱に陥ったアカイア軍は悪疫の原因を卜占に尋ね、その結果、神と人の間に生まれた者アキレウスアガメムノンクリュセイスの解放を示唆する。アガメムノンは不承不承にそれを受け入れるが、その埋め合わせとしてアキレウスの愛妾ブリセイスを奪う。アキレウスは怒ってアガメムノンの戦線から離れ、神である母親テティスを介して主神ゼウスに自らの名誉回復を訴える。ゼウスはそれを承り、アガメムノンの心を惑わせ、圧倒的戦勝を(誤)確信させる……。
第一歌で語られる出来事は、このように、膠着状態のトロイア戦争が終局的な大合戦に向かったのは何故か、を説明してくれる。第二歌以後は開戦の決定、そもそも戦争のきっかけをつくったメネラオスとパリスの決闘、神の加護を受けたディオメデスの大奮闘など、立て続けに続く戦闘描写に息を呑まれる筈である。個人的には、大きく言って二つの場面っから構成される、第六歌が面白い。ディオメデスとグラウコスが自らの家系を名乗りあううちに、両家の交遊関係を知り、衣服を交換して別れる場面。それから、これは特に名場面と言われるようだが、パリスの兄ヘクトルが妻アンドロマケと永久の別れを告げる場面の二つだ。ここでは戦闘の悲喜が対比的に語られており、叙事詩世界の深さを感じさせるには格好の箇所である。

第一歌の配慮

しかし、今しばらく第一歌を検討しよう。ここで投げ出されては困るからだ。 この歌は、物語の構成上配置されているにすぎない。たとば神官クリュセスとその娘クリュセイスはこれ以後登場しない。彼らの存在は、戦闘開始を自然に説明するための駒の一つ、という役割に限定されているのであって、それを超え出るものではないからだ。
それにしても、この説明はいささか不自然ではないだろうか? 戦闘開始を説明するには、ゼウスがアガメムノンを惑わせた 、という結末があれば事足りるのであって、アガメムノンによるクリュセイス、ブリセイスの強奪というエピソードは本当に必要なのか? しかし、ここにこそ天才詩人の霊妙な配慮が働いていると見るべきだと私には思われる。
まず、神々の積極的関与は、極力避けねばならない。ギリシア神話世界では、神人が入り混じって生活の絢をなすのだが、基本的に、神々は人間の意志を尊重している。彼らの役目は守護や祈願の承認である。特にゼウスは「人と神の父」と呼ばれる両世界最大の権威者であり、彼の決定は何ぴとたりとも覆せない。その彼が冒頭から気まぐれに戦闘開始を宣するのは、あまり好ましくない事態に違いない。同様に、神的な力を有するアキレウスがさしたる理由もなしにアガメムノンに怒るとも考えがたい。事のきっかけは、あくまで、人間アガメムノンの二重の失態にあり、傲慢というギリシア世界最大の悪徳に由来するものでなければならない。(とはいえ、後々には、この傲慢でさえも神の意図によるものと説明される箇所が見受けられるが、それでは完全にゼウスの一人芝居ということになってしまう。)
また、「アキレウスの怒り」という事態はこの叙事詩の最大の肝である。極論を言ってしまえば、アキレウスさえ戦闘に関与すれば、アカイア方の勝利は確定するのである。彼はそれほどに強く、神々の寵愛を享けている。逆にアキレウスという決定打を失ったアカイア方は、敵に壊滅的打撃を与えることができずに苦戦を強いられることになる。 この悩ましいジレンマが構成されるのが第一歌であり、これはごく後半に至るまで解消されない。つまり、ここで語られているのは、戦闘の発端であると同時に、その終局でもあるのである。

構え

これは、『イリアス』という統一体としての作品を考えるに、構成としても実に見事な配慮だと思われる。これだけ長大な詩をまとめるためには、一本の糸が必要であるが、それがピンと張られるのが他ならぬこの第一歌であり、単なる起承転結の「起」の部分と考えられるにはあまりに惜しい。ギリシア神話世界は、それこそ冒頭で歌い手が発する芸術の神ムーサへの祈りから既に始まっているのであって、読者はそれに「構え」すら用意できずに引きずりこまれることになるだろう。
以上、いくらかくだくだと『イリアス』の入門めいたことを書いたが、また気が向けば、テーマにも触れるかもしれない。